17 有名人のスパイ プーチン
ロシアの大統領ウラジミール・プーチン(1952ー)は、スパイにあこがれ、「どうすればスパイになれるか」を知るために、9年生の頃、KGBの支部を訪ねた。支部の人間が「軍の出身か、大学の卒業生しか入れない」というと、プーチンは、教えの通りレニングラード大学法学部を受験する準備を始めたのである。
●スパイとしては2流
1975年にKGB に入省したプーチンは 、最初の数年はレニングラードKGB 支部の圏内防諜部門で働いた。その後、モスクワの本部で対外情報活動を担当する第一総局に移り、85年から90年まで旧東独のドレスデンの、KGB支部にナンバー2として駐在。KGBスパイとしては2流ポストだった。
プーチンはドレスデンで「ベルリンの壁」崩壊に遭遇した後、KGB本部での仕事を打診されたが断り、レニングラードに戻った。
1990年、プーチンはKGBに辞表を提出し、政治の世界に乗り出した。1994年3月にサンクトペテルブルク市第一副市長に任命された。
その後、ロシア大統領府の総務局長の抜擢で、ロシア大統領府総務局次長としてモスクワに異動した。このプーチンのモスクワ行きが、彼の運命を変えることになる。経済危機が続く90年代のロシアでは、公務員の待遇は良くなく、エリートは出国したり民間起業に走り、有能な人材が枯渇していた。
クレムリンに入ったプーチンは、翌年大統領府副長官兼監督総局長、98年に大統領府第一副長官に出世。同年エリツィン大統領(1931 - 2007)が作った連邦保安局(FSB) 長官に就任した。プーチンが、KGB後継機関のトップとして返り咲いたのである。
FSB長官時代の99年3月、プーチンがエリツィンの娘タチアナや夫のユマシェフら「ファミリー」の窮地を救った。この一件が、エリツィンの注意を引き、プーチンを評価し始めた。
●チェチェン戦争で人気に
エリツィンがチェチェンの分離独立を阻止するため介入した「第2次チェチエン紛争」が勃発。プーチンが99年8月に首相に就任したとき、首相には軍の指揮権がないが、プーチンは自らチェチェンに乗り込み戦争を指揮した。この状況を、メディアはプーチンの活躍を何度も報道した。プーチンの果敢な行動は国民の支持により、彼の支持率は2%から70%に上昇した。この結果、プーチンは年末の下院選で勝利し、エリツィンの後継の座を確実にしたのである。(資料 名越健郎「独裁者プーチン」文春新書2012)