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1ユダヤ人の秘密 ドイツ脱出(始まり)

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ドイツから脱出した人々の数

 ヒトラーが権力を握ったとき、多くのユダヤ人は迫害を恐れてドイツから逃げたいと思った。しかし年と共に脱失が困難になっていったのは何故か?ヘルトヤン・ブルーク氏が書いている。以下はその要旨。
●ドイツから逃げたユダヤ
 1933年1月30日にアドルフ・ヒトラーがドイツ首相に任命された結果、4月1日までに党はユダヤ人を職場から排除し、さらに反ユダヤ法を可決した。これに応えて多くのユダヤ人市民がドイツを去った。1933年4月の最初の日だけで、数百人がアムステルダムに向けて出発した。1935年9月、ナチ党は「ニュルンベルク人種法」は制定し、ユダヤ人のドイツ市民権を剥奪した。
●新しい家を探して
 1933年から1937年の4年間に、約13万人のユダヤ人がナチスのドイツを去った。多くは南アフリカパレスチナラテンアメリカに向けて出発した。移民の次のピークは、1938年11月10日の夜にドイツ全土を襲った「水晶の夜」に何千ものシナゴーグユダヤ人の店が破壊され、100人以上のユダヤ人が殺害され、3万人のユダヤ人が集中キャンプに投獄された。そのため多くのユダヤ人がすぐにドイツを離れた。
●困難になる移民
 ユダヤ人難民の数が増えるにつれ、移民を受け入れる国に行くことは困難になった。南アフリカパレスチナは人数を制限した。イギリスはカナダは、少数の難民しか受け入れなかった。困難にもかかわらず、1938年と1939年にはまだ12万人のユダヤ人がドイツから脱出できた。残された約18万5000人のユダヤ人のうち、約2万人が大戦勃発前に脱出ができた。
 オランダは徐々に少数のドイツ人難民を受け入れ、1933年にアムステルダムユダヤ人難民委員会が設立された。オランダ当局は、ユダヤ人難民が第三国に移住するためにこの委員会の助けを求めるべきであると主張した。1930年代の間、政府の政策は、難民を可能な限り他の国に送ることに焦点を合わせ続けた。
●米国への移民
 多くのユダヤ人にとって、移民に最適な国は米国だった。1924年から、移民希望者は出国に際して国内のアメリカ領事館に申請が必要だった。申請数が増えたが、アメリカの政策は限られた移民体制に焦点を合わせ続けた。また申請者が有効なパスポートのあることが条件だった。一方ドイツでは、1941年11月25日から、まだ「市民権剥奪」になっていない領域外に住むすべてのドイツ系ユダヤ人を、まとめて市民権の剥奪をした。ヨーロッパには無国籍者に緊急パスポートを提供できる外交官がいたが、この措置は移民プロセスを深刻にした。
 さらに、1941年6月、ドイツと占領下のヨーロッパにある米国大使館と領事館が閉鎖された。それ以来、スペイン、ポルトガル、またはフランスの米国領事館に到着できる人のアメリカ移住は可能だった。
 結局、取り残された人々の状況は悲惨だった。すべての手続き、国際協力の欠如、そして最終的には戦争自体のために、多くのドイツ系ユダヤ人は、安全な場所に到達でき図、大多数はヨーロッパに留まることを余儀なくされた。
(資料 アンネフランクの家 )