シュールの本棚

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1石油戦争 第一次オイルショック(1973年)

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OPEC会議(1973年)

OPECの値上げ戦略

 1960年9月,イラン,イラクサウジアラビアクウェートベネズエラの5ヵ国による産油国首脳会議で、OPEC(石油輸出国機構)が設立した。これによりOPECは、価格設定と生産をめぐり石油メジャーの力を奪い、彼らの石油産業を国有化する機会を手に入れた。そして1973年10月6日、第四次中東戦争が勃発すると、アラブ諸国OPECを通じて彼らの力を完全に行使した。OPECは10月16日、石油の価格を70%引き上げ、1週間後に130%のさらなる引き上げを発表した。
 10月17日にはアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が、原油生産の段階的削減を決定した。イラクサウジアラビアから地中海東部沿岸へのパイプラインが閉鎖され、石油供給量が1日あたり約100万バレル減少した。

●石油危機でアメリカがOPECに対抗
 石油価格の引き上げの最初の成功は、石油生産者に莫大な収入をもたらした。米国に課した禁輸措置は1974年3月まで、オランダは1974年7月までに禁輸措置を解除した。こうしてOPECは手ごわいとの評判を得ることができた。
 先進工業国の中で、日本はおそらく石油危機によって最も大きな打撃を受けた。1972年、日本は石油の約87%を輸入し、その80%は中東からだった。オイルショックによる原油価格の値上がりは石油関連製品の値上げをもたらし、物価は瞬く間に上昇した。この危機を乗り切るため、政府は「石油節約運動」として、日曜ドライブの自粛や暖房の温度調整などを呼びかけた。
 しかし、石油価格の高騰による犠牲は開発途上国で際立った。アラブ諸国では、これらの国に有利な二重価格政策はないとして、発展途上国は先進国よりもはるかに多くの被害を受けた。
 当時の推定によると、1974年の湾岸諸国(サウジアラビアクウェートリビア、イラン、イラク)の石油収入は、1972年の約130億ドルから約520億ドルと、4倍になった。(シェボンティ・レイ・ダドワル「現在の石油危機」2000.5)
 しかしその後、80年代後半には石油需要の減少・低迷と非OPEC諸国の進出で生産シェアが低下、特に86年には原油価格は1バレル当たり10ドル以下まで大暴落した。こうしてOPECの値上げ戦略は不可能となる。