シュールの本棚

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1 有名人と同性愛 チャイコフスキー(始まり)

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コラージュ / モスクワ音楽院チャイコフスキー

 ロシアの音楽家チャイコフスキー(1840 - 1893) が、同性愛に目覚めたのはペテルブルグの法律学校の寄宿生時代(1851~59)だった。年下の学友、セルゲイ・キレーエフへの思いを歌曲にし、彼の写真を自室に貼っていた。

 1866年に彼はモスクワ音楽院に就職し、院長の屋敷に寄宿した。モスクワ音楽院での教師時代には、教え子のエアドアルド・ザークを愛した。1871年8月にアパートに移り住み、田舎の青年を召使いに雇い入れた。この青年はソフローノフ兄弟の兄ミハイルで、チャイコフスキーより8歳ほど若い。1876年までチャイコフスキーは2人を世話し、その後成長した弟が一人で仕え、チャイコフスキーの死後すべての動産をこの召使いに遺産として与えた。彼はチャイコフスキーの同性愛相手の一人という。

●死と関係する同性愛問題

 チャイコフスキーはステンボンク・トゥルモル公爵の甥が好きになった。この2人の交際を問題にした公爵は、皇帝あてにチャイコフスキーを告訴する手紙を書き、その訴状が訴追人のニコライ・ヤコビに渡った。彼は法律学校時代のチャイコフスキーの同級生で、この告訴が受理されると、チャイコフスキーの市民権剥奪とシベリア追放はまぬがれなかった。そこでヤコピは同級生8人を呼び、秘密の法廷を自宅で開いた。この審問の結果、「チャイコフスキーは有罪で、だれにも知られない手段で自殺すべきである」がその宣告であった。

 皇帝アレクサンドル三世は、チャイコフスキーの死後その事実を知った。チャイコフスキーの周辺の人々も、ことが公けになれば、教会での葬儀も大聖堂での追悼式もできないことは明らかであった。そこで事実は隠されたまま、チャイコフスキーの葬儀が国葬で行われたのであった。(資料 五島雄一郎「音楽夜話」講談社