12 ベルリンの盛衰 ホモセクシャルの弾圧
ナチスドイツは、ユダヤ人虐殺については数多くの書物や映画で伝えられているが、彼らは人種差別だけではなく、精神障害者やホモセクシャルの人々をも弾圧してきたことが知られている。しかしその具体的な方法についての記述は目にすることは少ない。フローレンス・タマーニュ「ヨーロッパにおける同性愛の歴史」2巻の8章は、ナチスドイツの時代のホモセクシャルの弾圧について詳しく述べられており、その冷静な記述は読みやすくしている。以下その一部を紹介した。
●1933-1935年 ドイツ軍モデルの清浄化
ナチスは 1933 年 1 月 30 日に権力を掌握し、最初の数年間でドイツの政策は一掃された。同性愛は弾圧され、組織と新聞は姿を消し、同性愛者は日影に隠れた。抑圧は日ごとに増大した。 「長いナイフの夜」とそれに続く大規模な同性愛嫌悪の世論キャンペーンの後、法律が更新されて新しい状況に移行した。
・抑圧キャンペーン
ヒトラーが権力を掌握すると、すぐに反同性愛者の抑圧キャンペーンが行われた。プロイセンの内務大臣ヘルマン・ゲーリングは、3 つの法令を制定した。
1、売春と性感染症に関連する事例、2つ目はわいせつな目的で使用されるバーの閉鎖。3は、その種の本や出版物の販売または貸与の禁止である。 違反者は罰金か、ライセンスやローンの承認を失うリスクがあった。
これらの法令は、同性愛者のサブカルチャーを迅速に解消した。ヒトラーが就任してから最初の数か月間、ドイツのすべての主要な町で、同性愛者のバーやクラブのほとんどが閉鎖された。
1933 年 2 月のゲーリングの 2 番目の布告は、同性愛者が頻繁に訪れる売春宿やそのジャンルの他の施設、およびバーの閉鎖を命じたもの。その結果、疑わしいバーが注意深く監視された。違反が確認された場合、ライセンスは取り消された。(356p)
・SS 隊員による実力行使
1933 年 3 月 3 日、ベルリンの新聞「ターゲブラット」は、ベルリンで最も有名な同性愛者やレズビアンのバーやクラブの閉鎖を発表する記事を発表した。しかし、バーは一度にすべて消えたわけではなく、警察はその一部を使って監視を続けた。
1934 年 6 月以降、1934 年 12 月 11 日に「タイムズ」紙が報じたように、「長いナイフの夜」に関連して、バーでの襲撃の新しい波が発生した。
12 月 10 日、機関銃を持った大量の SS 隊員が、市の西部にある 3 つの小さなバーを襲撃した。 SAの制服を着ていた顧客も全員と同様に逮捕され、警察本部に連行された。12月19日、「タイムズ」は襲撃が1週間ドイツ中で行われていたと発表。そして数百人が逮捕された。
この作戦は、些細な偶然に端を発した。約15日前、ベルリンのアパートで私的なパーティーが開かれていた。ホステスはその場にいた唯一の女性だった。午前中、2 人のゲストが誤って植木鉢をベランダから通りに落とし、それが通行人に当たり、警察の注意を引いた。警察はアパートに行き、NSDAP のメンバーやロシアの亡命者を含む多くの著名なベルリン市民を見つけた。アパートの検索により、6 月 30 日の出来事に関する政治文書が発見された。この発見により、当局は「褐色シャツ隊」に関連した環境の「清掃」を再開することになった。(357p)
以下、法規制の強化(361p),レズビアン(362),より厳格な量刑(367),警察と司法の慣習(369),ヒトラーユーゲントとSSにおける同性愛(373),ドイツ国防軍における同性愛(376),労働による排除(380),治療と去勢(384). フランスと英国の同性愛者(388),ドイツ亡命者(395)などが記載されている。
●結論
10 年の間、イギリスとフランスの同性愛者は、ドイツでの自由を享受していた。しかし役割は逆転し、自由と寛容を求めて海外に行ったのはドイツの同性愛者になった。
ナチズムの犠牲になった同性愛者の数を言うのは難しい。国の公式統計、残されたナチス統計などによると、同性愛者の数は、概算で10万人と示唆されている。そのうち約 5万人が有罪判決を受けた。そして5,000 人から 1万5,000 人の同性愛者が強制収容所に送られた。
当時のドイツの同性愛者の人口は 150 万から 200 万人と推定されているため、同性愛者の大多数はナチズムの下で生き残ることに成功した。(398)
出典 A HISTORY OF HOMOSEXUALITY IN EUROPE Vol. I & II by Florence Tamagne, Algora Publishing