1 モスクワの盛衰 KAL機撃墜事件(始め)
1983年9月1日、アンカレッジ国際空港からソウルに向かって飛行中の大韓航空のボーイング747が、ソ連領空のカムチャツカ半島を通過して、ソ連空軍の戦闘機に撃墜された。乗員・乗客合わせて269人全員が死亡。国別に韓国(乗客乗員をふくめ105名)、アメリカ(62名)、日本(28名)、台湾(23名)その他51名であった。
当事者である韓国は、当時ソ連との国交がないので、ソ連への抗議や交渉、国連での活動は、主に国連加盟国でソ連と国交がある日本(28名)とアメリカが行った。
事件後すぐに、日米ソの船舶や航空機が樺太の西の海馬島周囲の海域を船舶や航空機で捜索した。しかしソ連は領海内への日米の艦艇の立ち入りは認めず、公海上での捜索にも日米の艦艇に対して進路妨害などを行った。
その後、ソ連は回収した機体の一部や遺品などの回収物件を日本側へ引き渡したが、一方で「これ以外に遺体は見つかっていない」こと、「ブラックボックスは回収していない」ことを主張した。
●グロムイコ外相の見解
この事件の数日後にマドリッドで、各軍縮会議が開かれた。この時出席したのソ連のグロムイコ外相(1909 - 1989)は、アメリカのシュルツ国務長官(1920 - 2021)に、この事件に関するソ連側見解を次のように述べた。
「われわれはアメリカ側が重大な、事前に計画された反ソ行動をとっていることを非難する。アメリカ側の声明はわが方の確信を揺るがしはしない。いったいこの航空機は航路から500キロも逸れて、公海ではなくソ連国境内へ、それも極東ソ連の最重要軍事地域の方へ飛ぴ、2時間以上もソ連領空を侵犯した。これが事故のせいだというのだろうか」。 さらに言った。「この航空機は、ソ連領空にあるとき国際法およびソ連国内法に厳密にのっとって発せられた警告シグナルと着陸命令になぜ従わなかったか」。 シュルツはこれらの質問にいっさい答えられなかった。(「グロムイコ回想録」448頁 読売新聞社発行1989年より)
事件から9年後の1992年10月、KAL遺族代表団と米国国務省当局者は、ロシア連邦初代大統領のエリツィン大統領(任期1991-99)の招待を受け、モスクワを訪れた。遺族代表団は、クレムリンの聖キャサリンホールでの式典の中で、ロシア語に翻訳されたKAL 007のボイスレコーダーの部分的な写しと、悲劇に関連する政治局の文書を含むポートフォリオを手渡された。(資料 日本及び英文ウィキペディア)