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2モスクワの盛衰  粛清の歴史

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演説するレーニン(1917年)

 レーニンの死(1870 – 1924)で権力を握ったスターリンの粛清記録は、「1934~41年の逮捕者は1850万人で、うち銃殺100万人」(「ミコヤン回想録」)とある。スターリンのこの恐ろしい数字で、レーニンの暗いイメージは隠されたが、彼には革命を成功させるための恐るべき過去があった。以下は英歴史家ポール・ジョンソンの『現代史(上)』共同通信社1992年にある、レーニンによる粛清の歴史である。

レーニンの革命方針
 レーニン主義革命の悲劇は、ロシア特有の統治方法を復活させたことにある。
 テ口で脅迫し、警察力を使って弾圧する方針は、早い時期にレーニンが決定を下し、軍事主任のトロッキーがこれを支持したことはまちがいない。(…)これは他面において、レーニンの性格の一部である権力への意志の表われだった。事実すでに1901年に、レーニンは「われわれは原則としてテロを否定していないし、これからも否定することはありえない」と警告し、「人は革命に対しどういう態度をとるかだ。賛成か、反対か。もし反対だと言うなら銃殺刑にするまでだ」とも言いきった。(103p)
●「チェカー」の発足
レーニンが発足当初から、「反革命サボタージュ」と戦う組織「チェカー」を、徹底して情け容赦なく活用するつもりだったことに疑問の余地はない。1917年12月から翌 年1月までに人員をかき集めると、さっそく活動を開始し、まずすべての地方ソヴィエトから「革命と人民政権に反抗する組織あるいは個人の情報」を集める全国的スパイ網をつくりあげた。
このようにチェカーは、当初から一般人や臨時の密告者の助けを利用していたわけで、その数は時を追っ て増大した。専従職員の数も限りなく増えた。ツアーの保安警察の人口は1万5000人だった。それに対して、チェカーは設立以来3年のうちに25万の専従職員を数えるにいたった。活動規模もそれだけ大きく、帝政時代末則には年平均で17人が処刑されただけだったが、1918年から19年にかけてのチェカーによる処刑数は、政治犯だけで1カ月平均1000件にのぼった。(105p)
レーニンの煽動
 チェカーが出現して数週間のうちに、最初の強制労働収容所が設立された。「ブルジョワなら男女を問わず」ペトログラードの防衛壕掘りに動員するよう指示した人民安員会議の布告がその産みの親である。
 ルビヤンカ広場にある保健会社の大きな建物が接収され、そのなかに政治犯容疑者のための「内部刑務所」 がつくられて、以後チェカーレーニンに直属する独立した政府部局となった。
 1918年1月、内戦の始まる3カ月も前に、レーニンは「なまけ者10 人につきひとりをその場で射殺する」ことを主張し、一週間後には「やま師たちにはテロ(その場で射殺)を用いないかぎり、なにも達成できない」と公然とチェカーをせきたてた。レーニンの煽動は効果をあげ、1918年の前半、チェカーが行なった処刑件数は公式の発表ではわずか22人だったが、革命の目撃者で革命史家のW・H・チェンバレンは、1920 年末までにチェカーは5万人を死刑にしたと見積もっている。 (107p)