6ベルリンの盛衰 ドイツ国会議事堂放火事件
●ドイツの国会議事堂炎上
1933年2月27日の午後9時30分頃、議事堂のそばを通った神学生が火のついたものを持つ人影を見て、警官に急報した。警官は火を発見して消防隊に通報。消防車は10時前に到着したが、火はすでに燃え広がっていた。
議事堂の真向かいの宿舎にいたナチ党の外国報道部長は、家政婦の悲鳴で火事に気付き、ゲッベルス(1897 - 1945)のアパートに電話した。
真っ先に現場に着いた国会議長ヘルマン・ゲーリング(1893 ‐ 1946)は、現場での財産の避難と捜査に当たった。次に現場に到着した副首相のパーペン(1879 - 1969)にゲーリングは、「これは明らかに共産主義者の犯行だ」と叫んだ。間もなく到着したヒトラー(1889 - 1945)も、「この火事がコミュニストの仕業だとしたら、鉄拳で叩きつぶさねばならん!」と語った。
●犯人逮捕
現場を捜索したところ、焼け残った建物の陰にオランダ共産党員マリヌス・ファン・デア・ルッベ(1909 - 1934)が発見された。ルッベは放火の動機を「資本主義に対する抗議」と主張し、プロイセン内務省政治警察部長ルドルフ・ディールスは「狂人の単独犯行」と推定した。
ゲーリング国会議長公邸で開かれた対策会議で、政治警察部長は犯人逮捕を報告した。しかしヒトラーは、「共産主義者による反乱計画の一端」と見なし、「コミュニストの幹部は一人残らず銃殺だ。共産党議員は全員今夜中に吊し首にしてやる。」と叫び、単独犯とする政治警察部長の意見を一蹴した。
3月3日、その日のうちにプロイセン州警察は共産党議員や公務員の逮捕命令を出した。共産党系の新聞はすべて発行禁止となった。
今では、国会議事堂に火をつけたのはルッベだったという説が定着しつつある。なお、ルッベは1934年1月10日にライプツィヒの断頭台(ギロチン)で処刑された。(資料ウィキペディア)