シュールの本棚

マックス・エルンストの『百頭女』の影響を受けて、作品を作ってみました。

15 北京の盛衰  車の登場

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北京の路上を走る外国人の車(1905年)

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中華民国時代、北京に大量に参入した自動車

 1913年に北京にレンタカー店が登場した。1929年までに60台以上の店舗があり、200台以上の車があり、タクシーは主に裕福な階級のものだった。政治家や裕福なビジネスマンが乗り、地位の象徴だった。 資料 (「每日頭條」2017.3.5)

14 北京の盛衰 人民大会堂

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              人民大会堂

 1959年9月に完成した人民大会堂は、北京市天安門広場西側に位置する建築物。全国人民代表大会の議場として有名。外国使節・賓客の歓迎場所としても使用される。敷地面積15万m²、延床面積17万1800m²、高さ46.5m。

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              万人大礼堂

 大会堂の中心である大礼堂は扇形で、どこからでも演壇が見える。 講堂の幅は北から南に76米、深さは東から西に60米、高さ32米。1階3693席、2階3515席、3階2518席で、主席台は300〜500席、合計1万人収容可能。 安全上の理由から、3階は一般公開されておらず、会議や公演では6000人以上を収容できる。

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宴会庁

 宴会庁は2階にある。東西102米、北南76米、高さ15米で、面積7000平米以上。 4200人以上の宴会が開催できる。 宴会場の天井中央にはクリスタルガラス製の天井ランプがちりばめられ、大宴会や建国記念日のレセプションが行われる。(資料 「百度百科」、中景時代文化発展有限公司

13 北京の盛衰 ⽑主席紀念堂

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⽑主席紀念堂の落成式

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入場者の列

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「北大庁」にある大理石の毛沢東座像の前の入場者

 人民英雄紀念碑の南、天安門広場にある毛主席紀念堂は、毛沢東(1893 - 1976)を紀念して建てられた。 1976年11月24日、毛主席紀念堂の礎石敷設式が天安門広場で開催された。毛主席紀念堂は死後1年目の 1977年9月9日に一般公開された。面積は5万7000平米以上、総建築面積は2万8000平米。 本体は正方形で、外側には花崗岩で作られた柱が44本ある。
 次の部屋は「瞻仰庁」では、永久保存を施された毛沢東の遺体が見られる。正面の壁には「偉大な領袖にして偉大な導師、毛沢東主席は永遠に朽ちない」と金文字が刻まれ、水晶の棺の中には、党旗で包まれた毛沢東の遺体が安置されている。(写真「每⽇頭条」2018.4.9)

12 北京の盛衰 北京八宝山墓地

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北京八宝山墓地ゲート

 中華人民共和国建国後の1949年、戦争で亡くなったの英雄たちの貢献を忘れないため、八宝山(正式名称「北京八宝山人民公墓」)を殉教者の墓地に改造することになった。人民墓地は1950年に建てられ、その後も墓地が増設されている。
 北京八宝山墓地は、北京市石景山区東部、西長安街延長線北側、地下鉄八宝山駅の北700米にある。 墓地の総面積は約400エーカーで、東エリアは八宝山革命墓地と八宝山葬儀場があり、西は老山納骨堂がある。
 墓地には6万7000以上の墓があり、10万人近くが埋葬されている。ここは、北京で墓の数が最も多く、全国でも最も密度の高い墓地。墓地の多くは20年で徐々に古くなるため、古い墓は元の墓を再建した後にリースを更新したいという。
北京市葬儀管理条例」では、墓の管理料は20年周期で支払うと規定されており、状況に応じて10年間の継続が可能。土地のリース料と墓の管理料は、国の規制により1平米あたり1500元。北京市には33の法定墓地があるが、価格は主に墓の種類と場所によって異なる。(資料 百度百科)

11 北京の盛衰 京漢鉄道

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京漢鉄道を走る機関車

 中華民国時代の鉄道は、国営と民営、合弁があり、さらに外国による資金、敷設及び経営に依存した。「南満州鉄道」(日本)、「東清鉄道」(ロシア)、「九龍鉄道」(イギリス)、「広西鉄道」(フランス)など。
 中国南北の縦貫線である「京漢鉄道」は、もともと「盧漢鉄道」と呼ばれていた。
ロシアとフランスは東三省と雲南ベトナム鉄道の経営権を取得した後、ベルギー企業と共に「盧漢鉄道」(盧溝橋から漢口)の貸付権を取得した。「盧漢鉄道」の盧溝橋-保定の区間は、1897年清政府からベルギー企業に譲渡された。ベルギー企業による買収後、北の出発点は北京西便門を経由して正陽門(前門)西駅に、南端は漢口玉帯門に変更された。    
 1898年末、工事は南北から同時に開始され、1905年11月に黄河大橋が完成、1906年4月、全長1214キロの全線が完成し、「京漢鉄道」と改名された。1919年の乗客数は400万人を超えたという。
 1923年の統計では、この鉄道の毎月乗車する軍人数は4万7800人。全国の鉄道の年間軍人乗客数は150万人以上という。(資料「時拾史事」2021.1.22)

10 北京の盛衰 故宮の文化遺産の大移動

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文化的遺物を運び出している関係者(1933年)

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移動する前に広場に置かれた遺物(1933年)

 1933年2月、華北と東北の境界の山海関が占拠され、北京が危機に瀕したため、故宮博物院の人々は1万3000箱以上の文化的遺物を梱包し緊急避難、中国の大部分を横断して移動した。
 1936年に上海に保管されていた文化財は、5回に分けて南京の新しい倉庫に移された。 1937年の「盧溝橋事件」後、紫禁城の文化遺物は南に移動し、国立中央博物館の準備事務所(現在の南京博物院)の文化遺物は3つのルートで四川省に輸送された。3つの文化的遺物は、1946年に重慶に最初に集中し、1947年に首都南京に運ばれた。 1948年の終わりから1949年の初めにかけて、南に運ばれた2,972箱の文化財が台湾に運ばれ、ついに台北の国立故宮博物院に保存された。 1951年以降に南京に残された1万箱以上の文化財故宮博物院に返送され、残りの2,221箱は南京倉庫に保管され、南京博物院の所有下に置かれた。(来源:澎湃新聞2020.12.30 )

9 北京の盛衰 「北京第一監獄」

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北京第⼀監獄(1914年10⽉)

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北京第⼀監獄(1917年-1919年)


 1903年清朝政府は刑務所システムを改善するための新しい措置を承認し、「京師模範監獄」を建設(現清芷園⼩区)した。刑務所の場所は南城の沼地「南下洼」の沼地が選ばれた。刑務所の建物は、日本の刑務所科学者の小川茂博士が設計した。刑務所の建物の中央には円形の展望台があり、扇形に広がっていた5つの刑務所エリアを監視した。空から見ると、頭と足が伸びた亀のように見えるので、通称「王八楼」 と呼ばれた。
  1912年までに中華民国政府が引き継ぎ、1914年に名称を「京師模範監獄」から「北京監獄」に変更し、囚人の受け入れを開始した。それとともに清朝後期の刑務所改革が続き、さまざまな種類の新しい刑務所が建設された。統計によると、1926年までに中国国内に建設された新しい刑務所は63カ所のみで、残りはまだ古い刑務所だった。建設から管理までの技術を持つ北京第一監獄は、全国の刑務所管理者が資格を取得するための実習場となっており、 ここから全国の刑務所で働く300人以上の刑務官が学んだ。
 ここに収監されていた囚人には川島芳子(本名愛新覺羅顯㺭1907 - 1948)がいた。彼女は1945年10月に北京で中国国民党軍に逮捕され、1948年3月25日に北京第一監獄の西の空地で銃殺刑に処された。 ( 出典「北京晚報」 2013.6.24)