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1 国際事件賠償  米潜水艦による「えひめ丸」事故 (2001) はじまり

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えひめ丸

 2001年2月9日、ハワイのオアフ島沖で、アメリカ海軍原子力潜水艦グリーンビルが浮上し、愛媛県宇和島水産高等学校練習船えひめ丸を直撃した。衝突から10分以内に愛媛丸は沈没した。この事故で、乗船35人のうち9人(高校生4人、教師2人、乗組員3人)が死亡した。

 潜水艦がえひめ丸の生存者を助けようとはしなかった、そして潜水艦の船長スコット・ワドル司令官が直後に謝罪しなかったとして、怒りを表明した人もいた。米海軍は公の調査裁判所を実施し、ワドルとグリーンビルの乗組員の他のメンバーを非難し、非司法的な罰を与えた。ワドルは海軍調査委員会から尋問を受けた後、軍法会議は不要であると判断され、退役を余儀なくされ、名誉除隊が行われた。

●審理裁判所が召集

 衝突には商用船が関与していたため、米国国家運輸安全委員会(NTSB)が事故の調査を行う管轄権を持っていた。NTSBの職員は、数人の米海軍およびUSCGの役員とともに、グリーンビルが真珠湾に係留されるとすぐに、事件についての質問が開始された。その同じ日、コネツニ提督は船長のワドルを解任し、事故調査の結果が出るまで彼をスタッフに再配置した。NTSBの調査に加え、米海軍は2月10日に独自の調査も開始した。米海軍提督チャールズ・グリフィスは2月16日に予備調査報告書をファーゴ提督に提出した。翌日、ファーゴは、米海軍が最高の行政審理である調査裁判所を召集すると発表した。

 調査裁判所は2001年3月5日に始まった。ワドルの弁護士チャールズ・ギッティンズは、3月4日にハワイに到着した。えひめ丸の犠牲者の家族は、ワドルのすぐ後ろに座り、調査中、ヒアリング中に提示された証拠に感情的かつ声高に反応した。

 10月15日、米海軍ダイバーの最初のチームが、沈没船の捜索を開始した。視界が低い状態からゼロの状態で作業し、潜水艦救難艦「ちはや」からの66人の米ダイバーと30人の日本人ダイバーが、難破船を捜索しながら29日間で526回の潜水を行った。ダイバーは、行方不明者の遺体、多くの身の回り品、および船の銘板、錨、舵などのアイテムを回収した。回収の完了後、11月25日、えひめ丸は揚げられ、曳航船の下27mに吊り下げられた状態で海に曳航され、バーバーズポイントの南22kmの1,800mの水に沈没した。このイベントは、愛媛丸の犠牲者の家族の3人が「ちはや」に乗って目撃した。サルベージ作業の総費用は約6000万ドルだった。

●補償

 2002年4月10日、米海軍は、愛媛県政府に愛媛丸の沈没に対する補償として1,147万米ドルを支払う契約に署名した。約887万ドルは船の交換のための支払いであり、残りは生存者のためのカウンセリングと財政援助、そして犠牲者のための記念式典のために支払われた。2002年11月14日、米海軍は、犠牲者または負傷した生存者の35家族のうち、33家族に1390万ドルの補償金を支払うことに合意した。残りの2家族は、2003年1月31日に米海軍から260万ドルの和解を受け入れた。

 2001年11月11日、ハワイ州は日本政府の要請に応じて、船の記念碑は、2002年2月9日にホノルル近くのカカアコ・ウォーターフロントパークに完成した。(資料 英文ウィキ)