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11 有名人のスパイ  内通者キム・フィルビー

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キム・フィルビーとSIS本部

 キム・フィルビー(1912 - 1988)は典型的なモグラ(Mole)で、ソビエトKGB代理人として自国の諜報機関に潜入し、30年近くその秘密を売った男である。フィルビーは幼い頃に、共産主義の原則を知り、その種を育てた。1933年にKGBは彼を買収し、1934年までに、彼は影響力のあるスパイリングに参加した。1940年には、英国はドイツと戦争状態にあり、フィルビーはロンドンに移り、すぐにMI6に採用され、ナチスの暗号コードを破る任務をもつMI6部門のメンバーとして参加した。

 MI6がドイツの送信から解読した機密情報は、彼がソビエトに送った。ドイツのロシア侵攻計画「バルバロッサ作戦」の情報は、スターリンに無視された。

 1944年までに、フィルビーは、ヨーロッパ中で活動しているドイツのスパイに関する豊富な情報をソビエトに提供していた。しかし、彼の活動は疑惑を引き起こし始めていた。それにもかかわらず、1949年にフィルビーは、ワシントンDCでの英国大使館の秘書の地位に昇進した。 CIAとの秘密任務を調整する連絡先として、フィルビーは西側のソビエト防諜の要となった。

  フィルビーの二重代理店に対する最大の脅威の1つが発生しようとしていた。ソビエトのスパイ係員が誤ってデータを送信したとき、MI6はロシアのコードを解読し、エージェントがワシントンDCの英国大使館からソ連に秘密を送信していることを発見したのだ。

 そのエージェントは、5人のイギリス人Wスパイ(ケンブリッジファイブ)の1人ドナルド・マクリーンで、同じく大使館で働くもう一人のメンバーに、MI6が感づいたことをマクリーンに警告するよう伝えた。

 2人の外交官はすぐにモスクワに逃げ、フィルビーはロンドンに戻ることを余儀なくされた。フィルビーは、彼の帰国時にMI5からの激しい尋問に直面した。

 1951年までに、彼はMI6を辞任することを余儀なくされた。英国やソビエトのスパイマスターの役に立たなくなった彼は、外国特派員としてベイルートに送られた。1963年までに、フィルビーはソ連への亡命を公然と発表し、秘密裏にモスクワに旅行し、ソ連での生活を始めた。

 「愛敵心」の彼が、1988年に心不全で亡くなると、ソビエトで彼の葬儀が行われ、ソ連は彼に多くのメダルを授与した。参考=MI6