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16 有名人のスパイ  暗殺者スタシンスキー

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スタシンスキーとルビャンカ広場の元KGB本部

 ボーダン・スタシンスキー(1931- )は、毒性のカプセルを発射する銃で、暗殺の訓練を受けたKGBの暗殺者。ウクライナ生まれの彼は、19歳からソビエト情報機関で働き始め、ジョゼフ・レイマンという、架空の東ドイツ人になることを命じられた。1957年、西ドイツで暮らすウクライナ国家主義者のリーダー、レブ・レベトの暗殺を命じられた。

 スタシンスキーは青酸カプセルを装填した特殊な銃を使い、相手の顔に毒液の入った霧状の液体を噴射する。相手が毒性の水蒸気を吸い込むと犠牲者は脳血栓を起こして死に至る。スタシンスキーには、銃撃直前に服用する解毒剤が与えられた。

 1957 年10 月12 日、レベトはオフイスの階段で待ち伏せを受けて殺害された。

スタシンスキーの次の任務は、亡命しているもう1人のウクライナ人指導者、ステファン・パンデラの殺害だった。スタシンスキーはミュンヘンに行き、彼のアパートを確認した。次にモスクワに行って毒薬銃を受け取り、合鍵も用意した。

 スタシンスキーは尻込みし、現場は任務を遂行できる状況にないと上司に報告したが、もう一度挑戦するよう命じられ、1959 年10 月15 日に彼のアパートの玄関に入る所を狙って殺害を成功させた。

 同年12 月、モスクワに帰ったスタシンスキーは、それまでの功績に対して赤旗勲章が授与された。

 この頃、スタシンスキーは東ドイツ人女性インゲと結婚していたが、スタシンスキーは彼女に自分がソ連のスパイであることを打ち明けた。彼女は夫の職業に恐れおののき、この状況から逃れる方法を考えた。夫妻は罪の意識と不安を抱きながらも、1961 年8 月12 日にベルリンでアメリカ当局に亡命を申請した。スタシンスキーは「司法首都」カールスルーエで裁判にかけられ、自らの役割を自白する。62年10月の判決は「彼に命令した方が主犯、被告人は従犯」として8年の刑だった。1966年末に極秘で釈放され、アメリカに入国した。(資料 ロナルド・セス「死刑執行人」潮文社1969 )