シュールの本棚

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14 ベルリンの盛衰 ベルリン市街戦

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ベルリンの赤軍兵士の死(雑誌「スピーゲル」2004より)

 1945年4月16日、赤軍はベルリン占領を目的とするベルリン作戦を発動した。4月23日、赤軍はベルリン市の郊外に進入、4月27日には市は完全に包囲された。
 赤軍の砲撃が市内に直接届く段階になると、市民の多くは市内の3箇所の市民公園のに建てられた高射砲塔をはじめ、大型防空壕や地下鉄駅構内、下水道、自家製の防空壕、住宅の地下室などに避難したが、水道も断水で衛生状況は悪かった。
 白旗を掲げる家では親衛隊に狙撃され、何もしなくてもソビエト兵に殺される状態であった。
戦いが長引くにつれ地下壕や病院は負傷兵で一杯になった。医薬品は不足し、負傷兵は放置された。
ソビエト赤軍砲撃の集中箇所のひとつは、ヴィルヘルム街の航空省ビルであった。
 4月30日、ソビエト赤軍攻撃部隊にポーランド軍が加わった。午前6時、第150狙撃兵師団はゲシュタポ本部での戦闘を継続しつつ、ケーニヒ広場を横切って帝国議会議事堂への攻撃を開始した。
ヒトラーの死
 4月29日、ヒトラーは総統官邸の防空壕にてエヴァ・ブラウンと結婚式をあげ、翌30日午後3時、ヒトラーはピストル自殺、エヴァは青酸カリを飲んで死亡した。二人の遺体は官邸の中庭で焼却された。後に残ったゲッペルスは、5月1日、妻及び6人の子どもを道連れに自殺した。
 5月2日、ソビエト赤軍は総統官邸への攻撃を開始した。市内では降伏を拒否した武装SSが立てこもる建物で散発的な戦闘が続いていたが、ソビエト赤軍は立てこもりを続ける建物を爆破して対応した。ベルリン攻防戦は終了。BBCはドイツ軍の死者6万人、捕虜12万人と伝えた。市内でソビエト赤軍による炊き出しが始まると、ドイツ兵、避難民らが行列を作った。
●ドイツ軍の降伏
 ドイツ軍の降伏文書の署名は5月7日アイゼンハワー元帥の総司令部のあるランスで、ヨーデル元帥との間で行われた。だがソ連側の主張により、5月9日ベルリンにおいてソ連軍のジューコフ元帥とドイツ軍のカイテル元帥によって完全に降伏文書が実現した。(資料 日本語ウィキペディア他)