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15 ベルリンの盛衰 ニュルンベルク裁判

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法廷に立つゲーリング(LIFE 1945.12.10)

 ニュルンベルク裁判とは、第二次大戦でのドイツが行ったとされる戦争犯罪を裁く「国際軍事裁判」(1945年11月20日 - 1946年10月1日)をいう。ナチ党の党大会開催地であるニュルンベルクで開かれた。東京裁判と並ぶ二大国際軍事裁判の一つで、いずれも戦勝した連合国側が敗戦した枢軸国側の被告を裁いている。
 この裁判については、法の不遡及罪刑法定主義の立場をとる「欧州大陸法」的な立場からは、「事後法」による裁判であるとの批判が、当時から現在まである。また検事側の伝聞証言が、犯罪を立証する証拠として採用されたり、弁護側の証人が様々な脅迫や圧力を受けるという事態もあったという。
●被告の判決
 ヒトラーゲッベルス、ハインリヒ・ヒムラー(SS長官)はすでに自殺しており、ナチ党最大の実力者マルティン・ボルマンも行方不明(後年自殺が判明)で欠席裁判(死刑判決)となった。
 被告となった「主要戦犯」24名のうち、死刑(12名)、終身刑(3名)、禁固20年(2名)、禁固15年(1名)、禁固10年(1名)、無罪(3名)、裁判に耐えられず訴追されない(1名)、公判前に自殺(1名)だった。
 戦争の全容解明が困難で、「自分はヒトラーや上官の命令に従って行動したもので、責任はない」との被告の弁解が、常にあったという。
●10人の死刑執行
 1946年10月16日早朝、最高のナチ戦犯のうちの10人が、ニュルンベルクでの判決により絞首刑となった。この日、11人の死刑者があったが、ゲーリングは処刑の2時間半前に、シアン化カリウムを呑んで絞首刑を免れた。午前1時14分に執行が開始され、103分で終了した。
 10人の死刑囚はリッベントロップ(外務大臣)、カイテル(陸軍元帥)、カルテンブルンナー(国家保安本部長官)、ローゼンベルグ外交政策全国指導者)、フランク(ポーランド総督)、フリッチェ(宣伝省幹部)、シュトライヒャー(フランコニア大管区指導者)、ザウケル(労働力配置総監)、ヨードル(最高司令部作戦部長)とザイス=インクヴァルトオーストリアナチス指導者)で、その順序で縄がかけられた。

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図は死刑執行室(中央に3つの絞首台が見える)資料「LIFE」1946.10.28

●免責された戦勝国の犯罪
 ニュルンベルク裁判の問題点は、ドイツ側の「犯罪」を一方的に断罪したが、戦勝国側の「犯罪」は免責するという基準を持っていたことである。
・大戦の原因となったポーランドによるダンツィヒ領の占有問題、1939年9月3日のフランス、イギリスによるドイツへの一方的な宣戦布告は断罪されなかった。
・連合軍によるドイツへの無差別爆撃(ドレスデン爆撃などをはじめとして、150万トンもの爆弾がドイツ本土に投下され、少なくとも30万人の非戦闘員が犠牲になった。
・ドイツへのソ連軍の侵攻にともない、ソ連兵による強姦・暴行・殺人事件も裁判では不問とされた。
終戦前後のアメリカ軍による、ドイツ人捕虜への虐待や食料供給不足による大量死も取りざたされなかった。(資料 ウィキペディア