シュールの本棚

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23 有名人のスパイ  虐殺者クラウス・バルビー

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法廷のバルビーとナチス時代のバルビー

 第2次世界大戦中、フランス・リヨンでゲシュタポの治安責任者として赴任したクラウス・バルビー(1913-1991)は、反独レジスタンスを鎮圧の任務で、8,000人以上を強制移送に送り、4,000人以上の殺害に関与し、15,000人以上のレジスタンスに拷問を加えたとされている。彼は、「リヨンの虐殺者」と呼ばれ、フランスによる欠席裁判で2度死刑判決を受けている。

 バルビーは4,000名ものユダヤ人とレジスタンスを拷問の末に殺害したとして、戦争犯罪捜査官による追跡が行なわれていたが、アメリカ陸軍防諜部隊(CIC)が、ナチスやソピエトの諜報員に関する情報を得るため、彼を利用した。バルビーはアウグスブルグのセイフハウスにあって、ドイツ及びソピエトの諜報活動に関する情報をCIC職員にもたらしていた。やがてフランスの諜報機関は、アメリカがバルビーをかくまっていることを察知して引き渡しを求めたが、拒否された。1951年にはCIAの手で南アメリカに逃れ、ボリビアのラバスに到着した。

 ナチスハンターは1970年代にバルビーの居所を突き止めたが、ボリビアの軍事政府は1983年まで彼をかくまった。1957年10月にはボリビア国籍を取得し、その後数十年間にわたり、ボリビアの軍事政権の庇護のもとに、ボリビアの軍事政権の歴代指導者の治安対策アドバイザーを務めた。

 しかし1982年に誕生した文民政府により、フランスに引き渡された。1979年にドイツの雑誌で「ユダヤ人を残らず殺さなかったことを残念に思う」と述べたとされるバルビーは、有罪になっていたが、時効(20年)が過ぎていたため以前の判決は無効となっていた。

 しかし、「憎悪すべき犯罪に対するナチスの責任は、世界の終末まで問われるべき」とするフランスの法律により、バルビーは裁きを受けることになった。裁判の結果、バルビーは「人道に対する罪」で終身刑の判決が下された。その後1991年に癌のため獄中で死亡した。(資料「スパイ大辞典」論創社 2017)