シュールの本棚

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24 有名人のスパイ  アイヒマン誘拐を指揮したハレル(終わり)

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裁判を受けるアイヒマン、右はハレル

 ロシアに生まれたイッサー・ハレル (1912-2003)は、1931年にパレスチナへ移住、所属していたイギリス警察を解雇された後、ユダヤ人の地下防衛組織ハガナに入隊、情報活動に関った。

 ベン=グリオン首相の友人だったハレルは、1949年、イスラエル国防軍の初代情報部門のトップ、イッサー・ベーリが辞職すると、ハレルはシンベト長官に就任した。同時にイスラエルの情報活動を統轄する責任者として、国内外を問わず公安に関する事頃は首相の直属下に置かれた。

 ハレルは、モサド内部にナチ狩り隊を設置し、戦犯法廷を逃れた「最重要」ナチ関係者リストを作成し、そのトップが、ユダヤ人数百万の殺害を主導したアドルフ・アイヒマンだった。ハレルは、ドイツのへツセン州検事のフリッツ・パウアー博士から、アイヒマンがアルゼンチンにいるという有力情報を受け取った。

 イスラエルの情報機関チームは1960年5月にアルゼンチンに赴き、アイヒマンの家族が、プエノスアイレス市の低地部のサン・フェルナンド地区に住んでいることを知った。

 追跡斑は、家族の住んでいる家をあらゆる角度から望遠レンズで撮影した。アイヒマンを誘拐した。囚人をエル・アル航空で連行するための手はずは整っていた。プエノスアイレスを発ってから24時間後、飛行機はイスラエルのリッダ空港に着いた。

 翌年4月に人道及びユダヤ人に対する犯罪、そして戦時における国際法違反で彼を起訴する。その結果アイヒマンは有罪となり、62年6月1日に処刑された。(資料 アイゼンバーグ「ザ・モサド時事通信社 1980)