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13 モスクワの盛衰 ソルジェニーツィン

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ソルジェニーツィン(1974年)

 ソルジェニーツィン(1918 - 2008)は、ソ連の作家。『収容所群島』や『イワン・デニーソヴィチの一日』の作品で、1970年にノーベル文学賞を受賞。1974年にソ連を追放されるが、ソ連崩壊後の1994年に帰国した。

●生涯
 ソルジェニーツィンは1918年に北カフカースのキスロヴォツク(現在のロシア、スタヴロポリ地方)で生まれる。
 ソルジェニーツィンロストフ州立大学で数学を学び、大学在学中の1940年4月、学生であったナタリヤ・レシェトフスカヤと結婚した。二人はソルジェニーツィンがグラグから釈放される前年の1952年に離婚。1973年に2番目の妻、ナタリヤ・スベトローバと再婚した。
●逮捕と収容
 1945年2月、東プロイセンの前線でソルジェニーツィンは友人へ送った手紙に、スターリンを批判をしたとして逮捕された。同年7月、懲役8年を宣告される。労働収容所での労働を強いられる。1950年にはカザフスタンのエキバストスの特別収容所に送られ、雑役工として3年間を送る。エキバストス収容時に腫瘍を患い手術を受けたものの完治しなかった。
 1953年3月、8年の刑期を終えたが、カザフスタン北東部への永久流刑が決定。同年末までに癌が進行し死線を彷徨うが、翌年タシケントの癌病棟で治療。そこでの経験は『ガン病棟』の基礎となる。ソルジェニーツィンマルクス主義を放棄し、哲学的、宗教的な立場へと変化した。
●出獄後
 1956年、フルシチョフスターリン批判の演説を行い、国内では非スターリン化が推進され、粛清の犠牲者の名誉回復がなされる。ソルジェニーツィンは7月に流刑から解放された。リャザンに住み、昼は中学校の教師として働き、夜は文筆活動に従事した。
 42歳のとき、彼は『イワン・デニーソヴィチの一日』の原稿が編集され、1962年に発表された。本はベストセラーとなった。この小説は他のソルジェニーツィンの短編3本と共に、ソ連の学校で教材として使用された。
 ソルジェニーツィンの本作の公表は「雪解け」の代表的な例であった。しかし1964年にフルシチョフが失脚すると、ソ連における文化的雪解けは後退し、ブレジネフの暗い時代が始まった。
●迫害
 ソルジェニーツィンは『ガン病棟』のソ連国内での公表が失敗に終わった。彼の作品は直ちに発行停止となり、1965年までにKGBは彼の作品を押収した。1966年1月に「新世界」誌に発表された短編『胴巻のザハール』が最後の作品となった。
 KGBがモスクワでソルジェニーツィンの原稿を押収したため、1965年から67年の間に『収容所群島』の草稿は、エストニアの友人宅で密かにタイプされた。1968年には国内で発表できなかった長編『ガン病棟』『煉獄の中で』等を海外で発表した。
 1969年10月、ソルジェニーツィンは、反ソ的イデオロギー活動を理由として作家同盟から追放された。1970年にはノーベル文学賞を受賞したが、海外に出て市民権を剥奪されることを恐れ、授与式には出席できなかった。
 1971年8月、KGBソルジェニーツィンが旅行中に、未知の有毒物質(おそらくリシニン)が注射した。作家は生き残ったが、長い間重病であった(ロシア版ウィキペディア)。

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収容所群島ソ連版(1989)

 1973年暮、パリで『収容所群島』第1巻を出版した為、ソ連当局から激しい非難を浴びた。
 1974年1月14日、「プラウダ」紙上に「裏切りへの道」と題するソルジェニーツィン批判の論文が発表される。これ以降ソ連のマスコミは一斉に非難攻撃を開始した。2月8日、彼はソ連検事局の出頭命令を拒否。2月12日に反逆罪で逮捕され、レフォルトヴォ監獄に拘留される。翌13日、「国家反逆罪」でソ連市民権を剥奪後、飛行機で西ドイツのフランクフルトに国外追放された。
●西側での生活
 1975年4月、彼は家族と一緒に西ヨーロッパに旅行し、次にカナダと米国に行った。1975年6月から7月に、ソルジェニーツィンはワシントンとニューヨークを訪れ、労働組合の議会と米国議会で演説を行った。
 1985年3月11日、ソ連ではゴルバチョフ政権が誕生した。ゴルバチョフはブレジネフ政権以来の内外政策の行き詰まりと社会的停滞からの脱却を目指す路線を打ち出す。
 1990年8月、大統領令によってソルジェニーツィンソ連における市民権は回復した。1991年12月、ソビエト連邦は崩壊した。
●ロシアへの帰還
 ソルジェニーツィンは家族と一緒に、1994年5月27日にアメリカからマガダンに飛行機で帰国した。その後ソルジェニーツィンは死去するまで、妻と共にモスクワ西部郊外のダーチャに居住した。1997年5月からロシア科学アカデミーの正会員に選出され、同年ソルジェニーツィン文学賞を創設する。
 2000年にはプーチン大統領と面会。2007年6月13日にロシア文化勲章を受章。2008年8月3日にモスクワの自宅で心不全のため死去した。89歳没。葬儀はドンスコイ修道院で行われた。(資料、日本、ロシア・ウィキペディア