シュールの本棚

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12 モスクワの盛衰 宇宙飛行士ガガーリン

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ボストーク宇宙船(モスクワにあるコピー機

●世界初の有人宇宙飛行
 1961年4月12日、ボストーク宇宙船に乗ったガガーリン(1934 - 1968)は世界初の有人宇宙飛行に成功した。この宇宙船は、カザフスタンのクズルオルダ地域にあるバイコヌール宇宙基地から打ち上げられ、地球周回軌道に入り、大気圏外を1時間50分弱で1周したのち大気圏内に再突入した。高度7000mでガガーリンは座席ごとカプセルから射出され、パラシュートで降下し、ソ連領サラトフ州スミロフカ村の外れに無事着地した。
●宇宙飛行士選抜過程
 1959年、宇宙開発が本格的に始まり、宇宙飛行士の選抜が始められ、1960年3月にガガーリンを含む20人の候補生がモスクワ近郊の基地へと配属された。ガガーリンは宇宙飛行に必要な耐久テストされながら、厳しい訓練を受けた。6月18日には宇宙船の開発者が候補生を招き、彼らに宇宙船を見せた。1960年末には候補者はガガーリンを含む6人にまで絞られた。4月8日に最終選考が行われ、ガガーリンが正飛行士、チトフが代替要員に決定した。

●成功後のガガーリン
 地上に帰還したガガーリンは一躍「時の人」となった。4月14日のモスクワ・赤の広場での記念式典で、ガガーリンフルシチョフ書記長と共産党の偉大さを賞賛した。フルシチョフにとってガガーリンの成功は、通常兵器を犠牲にして推進したミサイル増強計画の成果を示すものであった。国内での式典が一段落した4月末から、ガガーリンソビエトの宇宙計画の広告塔として世界を旅するようになった。
 1962年5月には日本を訪問した。1963年12月には宇宙飛行士訓練センターの副所長に就任した。しかし1964年10月にフルシチョフが失脚すると、ガガーリンの地位は大きく低下し、対外的な仕事は激減した。1966年1月には師のコロリョフが死去し、ソ連の宇宙開発計画はしだいに停滞していった。
●突然の事故死
 1968年3月27日、ガガーリンは教官とともに搭乗したミグ15複座練習機で、ヴラジーミル州西部の都市キルジャチ付近を飛行中、墜落事故を起こし死亡した。事故の原因は、1986年に発表された調査資料によれば、ソ連の超音速迎撃戦闘機スホーイ11が付近を高速飛行したため、その衝撃波に巻き込まれて操縦不能状態になった可能性が示唆されている。1988年の「プラウダ」紙の報道では、飛行中のガガーリンの近くを管制ミスのためミグ21戦闘機が通過し、事故を招いたという調査結果が取り上げられた。(資料 日本、ロシア・ウィキペディア