シュールの本棚

世界で日々起きていることは、現実を超えて進んでいる

17 モスクワの盛衰 ソ連の8月クーデター

f:id:danbuer:20210517171711j:plain

1991年8月19日モスクワ(写真BBC)

ソ連の8月クーデターは、1991年8月19日に、モスクワで発生した。
ヤナーエフ副大統領(1937 - 2010)ら保守派グループが、クーデターを起こす。しかしロシア大統領エリツィン(1931 - 2007)を中心とした市民の抵抗により、クーデターは3日で終わるが、事件はソビエト連邦をさらに不安定にし、ソビエト連邦共産党の崩壊につながった。
●クーデター前夜
 1985年に共産党書記長チェルネンコ(1911 - 1985)が死去。後任のゴルバチョフ(1931 - )がソビエト大統領に就任して、ペレストロイカ(再構築)やグラスノスチ(情報公開)を進めた。
 1991年8月19日、ゴルバチョフ大統領が新連邦条約に調印する前日、「国家非常事態委員会」を称するグループがモスクワでの権力奪取を試みた。
 8月18日の午後5時頃、ゴルバチョフの補佐官であるボルジン大統領府長官(1935-2006)らが、クリミア半島フォロスの別荘で休暇中のゴルバチョフに面会を要求、「ヤナーエフ副大統領への全権委譲と、大統領辞任」を迫ってゴルバチョフを別荘に軟禁した。
●8月19日クーデター
 「国家非常事態委員会」は、8月19日の午前6時半に「ゴルバチョフ大統領が執務不能となり、ヤナーエフ副大統領が大統領職務を引き継ぐ」との声明を発表する。こうして反改革派が全権を掌握、モスクワ放送は占拠された。タマンスカヤ師団とカンテミロフスカヤ戦車師団の装甲部隊が、空挺部隊とともにモスクワに転入した。約4000人の兵士、350台の戦車、300台の装甲兵員輸送車、420台のトラックがモスクワに動員された。
 エリツィン大統領は、午前9時に、ロシアの政府庁舎に到着した。彼は、ロシアの首相イワン・シラーエフと最高会議議長のハズブラトフとともに、「憲法に反する政権のクーデター」として「非常事態委員会」の行動を非難する宣言を発表し、「軍はクーデターに参加しないよう」促した。
 午後、モスクワの市民は政府庁舎の周りに集まり、バリケードを築き始めた。
●8月20日
 正午、ヤナイエフがモスクワの軍事司令官に任命したカリニン将軍が、8月20日23時から翌朝5時までモスクワでの「夜間外出禁止令」を宣言した。これは、政府庁舎の攻撃が差し迫っている兆候と理解された。
 政府庁舎の警備員は準備をしたが、彼らのほとんどは武装していない。エヴドキモフの戦車は夕方に議事堂から移された。仮設の防衛本部は、ロシアの人民副官であるコベツ将軍が率いた。
 午後、議事堂を攻撃することが決まった。この決定は他の「非常事態委員会」のメンバーに支持された。その後、この作戦は流血を招くので、取り消されるべきであるとアゲエフを説得しようとした。
●クーデター失敗
 8月21日午前一時頃、タマンスキー師団は、市民などの妨害で政府庁舎に移動できず、ヤゾフは軍隊にモスクワからの撤退を命じた。ゴルバチョフがクリミアで自宅軟禁されたという報告も表面化した。
 軍隊は午前8時、モスクワから移動し始めた。モスクワへのダーチャの通信が回復したので、ゴルバチョフはすべての非常事態委員会の決定が無効であると宣言し、そのメンバーを解任した。ソ連検察庁はクーデターの調査を開始した。
午後1時53分、エリツィンは「クーデターが未遂に終わった」と宣言し、メンバーの拘束指令を発した。午後9時にはクーデターの関係者は逮捕され、モスクワ放送が復活した。

f:id:danbuer:20210517171757j:plain

戦車の上に立つエリツィン大統領(ロイター/ ITAR-TASS)

ソ連共産党解体
 8月24日、モスクワで追悼集会があり、市民20万人が参加した。ゴルバチョフソ連共産党書記長を辞任。11月6日、エリツィンはロシアでの党を禁止する法令を発布した。構成国の相次ぐ独立により、ソビエト連邦は1991年12月25日に消滅した。

 資料/アレクサンドル・プトコ「新ロシア革命共同通信社(1992)