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14 モスクワの盛衰 KGB

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ルビャンカ広場のKGB本部(1985年)

 KGB、国家保安委員会 (Komitet Gosudarstvennoy Bezopasnosti)は、1954年からソ連の崩壊(1991年)まで存在したソ連の情報機関・秘密警察。
 KGB(1954-1991)は、1954年3月7日に、第3代最高指導者フルシチョフ(任期1953 – 1964)によるスターリン主義システムの主要な改革の1つとして作成された。 組織の完全な称号「閣僚評議会の下の国家保安委員会」(Komitetgosudarstvennoi bezopastnosti pri sovete ministrov) は、治安警察が政府に報告することを示唆したが、実際は共産党指導部の指導下にとどまった。フルシチョフの下では、KGBの議長は共産党指導部のメンバーでなかった。 1967年のユーリ・アンドロポフ(KGB議長1967 – 1982)の任命を皮切りにKGBの上級将校は、国および地方レベルで党首に就任した。
 KGBの人員配置に関するデータは不完全だが、1991年にKGBは48万6,000人の人員を持っていると報告された。これらのうち、約半数は国境警備隊の最高局にいた。
  KGBには、中国を除いて、他のどの国よりも多くの内部保安および防諜機能に専念する役員がいた。 KGBに雇用されている情報提供者の数に関する信頼できる情報はないが、元当局者の何人かはその数を1,000万人をわずかに超えているという。
 フルシチョフの改革は、共産党指導部の監視下の治安警察の役割を減らすことを目指していたが、フルシチョフからゴルバチョフまでのすべての党首は、国民の綿密な監視、および外国の諜報機関と防諜をKGBに依存していた。スターリン主義者の局員の冷酷さで悪判を得ることはなかったが、KGBは非常に効果的な情報機関で、ソビエト社会の隅々に情報提供者がいた。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領のような元KGB役員は、KGBがすべてのソビエト機関の中で最も腐敗が少ないと信じている。(「ロシア・インテリジェンス歴史事典」2006. 127p )
KGBの最後
 本部はルビヤンカ広場の全ロシア保険会社ビルに置かれた。1991年、クリュチコフKGB議長がソ連8月クーデターを起こし失敗して解任、後任の最後のKGB議長ワジム・バカーチンによってKGBは解散した。KGBで対外諜報を担当していた第一総局の後継機関はロシア対外情報庁(CBP)である。総合的な組織では1995年に作られたロシア連邦保安庁FSB)がある。(ウィキペディア