シュールの本棚

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22 連環画の壺 「騎射の家法」

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清人絵 雍正行楽図冊 故宮博物院

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清人絵 乾隆大閲図軸 故宮博物院

壺22 騎射の家法

清王朝の創立当初、清王朝の初代皇帝ヌルハチ(1559ー 1626)は、弓と馬で天下を取ったため、乗馬での弓射を国策とした。幼い頃から、彼は卓越した矢の能力を持ち、女真族のなかでも卓越していた。 そのため、皇太子とその子孫に騎射を奨励した。この遺志は、康熙帝(4代)・雍正帝(5代)・乾隆帝(6代)にも受け継がれた。(資料 故宮博物院HP)

21 連環画の壺 「王羲之伝」

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太守李矩の衛夫人から7歳の時から書を学ぶ王羲之

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王羲之の七番目の子が字のうまくなる方法を聞くと、 王羲之は大壺18鉢分の墨水を使用するまでと答えた

連環画の壺21 王羲之

王羲之(おうぎし303 - 361) は魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族の家に生まれた。羲之は朝廷の高官から高く評価され、護軍将軍に就任するも、しばらくして地方転出を請い、会稽郡 ( 浙江省紹興市付近)長官となった。

羲之は会稽に赴任すると、山水に恵まれた土地柄を気に入り、ここを終焉の地と定め、当地の名士たちとの交遊を楽しんだ。

354年、かねてより羲之と不仲であった王述が会稽内史を管轄する揚州刺史となる。王羲之は王述の下になることを恥じ、翌355年、病気を理由に官を辞して隠遁する。官を辞した王羲之はその後も会稽の地にとどまり続け、悠々自適の生活を過ごした。

太守李矩の衛夫人から7歳の時から書を学び、12歳の時に父の枕中の秘書を盗み見、その技量が進んだ。さらに各地を巡って古書を見、寝食を忘れて精進し、楷書・行書・草書の各書体について一家をなした。

(資料 連環画 「王羲之的伝説」浙江人民美術出版社 1980 )

20 連環画の壺 「楊貴妃」

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図1 連環画「長生殿」表紙

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楊貴妃を寵愛する皇帝玄宗は、楊貴妃の兄を宰相とし、 彼女の3人の姉にはそれぞれ泰国、韓国、虢国夫人とする。

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戦いに敗北した安禄山、酒場に入って自分の行末を憂う。

連環画の壺 20『長生殿』

『長生殿』(ちょうせいでん)は、清の洪昇(こうしょう)の古典戯曲。前半は楊貴妃の入内からその自殺まで、後半は安禄山の無道と鎮圧、その後の玄宗の生活を描く。

唐の皇帝玄宗楊貴妃を寵愛するが、曲江の宴で、楊貴妃は姉の虢国夫人が玄宗に近づいたことに嫉妬して二人を殴る。唐明皇は怒って楊貴妃に暇を出すが、すぐに呼びかえす。楊貴妃の誕生日に長生殿で宴を開き、楊貴妃が舞う。その後、玄宗楊貴妃のライバルの梅妃を訪れ、楊貴妃が知って大騒ぎになる。安禄山は戦いに敗北し、東平郡王に封ぜられるが、朝廷を欺むいて百万の兵を蓄え反乱を起こす。(資料 連環画「長生伝」全178図)

19 連環画の壺 「禅宗の六祖慧能」

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慧能、黄梅の東禅寺を尋ね、五祖弘忍から入門を許される。

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五祖弘忍は慧能に祖伝の衣鉢を渡し、事故を避けるために寺院を去るよう指示した。

壺19  慧能(えのう 638 - 713)は、父を早くに亡くし、薪を売って暮らしていた。ある日、『金剛般若波羅蜜経』の読誦を聞き出家、文字が読めないため、黄梅(おうばい)の東山に禅宗第五祖、弘忍(こうにん)を尋ね、仏性(ぶっしょう)問答によって入門を許された。しばらく寺の米つきに従事した。弘忍より大法を受け継いだが、多くの弟子からねたまれるのを危ぶんだ弘忍の命令で、達磨の袈裟を持って寺から避難した。その後、広州に帰り法性寺(ほうしょうじ)の僧侶となる。翌677年、曹渓宝林寺(広東省)に移って禅法を発揚し、多くの信奉者を得た。705年朝廷に推挙されるが断り、亡くなるまで布教を続けた。(資料 精品彩絵連環画《慧能伝》)

18 連環画の壺 「作家 蒲 松齢」

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図1 店の中で人々から話を聞き出す蒲松齢

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図2 老僧からも話を聞き出す

壺18  蒲 松齢(ほ しょうれい、1640ー1715)

清代の作家蒲 松は怪異小説集『聊斎志異(りょうさいしい)』を書き名を残した。

蒲松齢は20歳から小説の執筆を始め、同時に話の収集を行っていた。彼は通りに座り、道を行く旅人を呼び止めては奇異な話を収集し、更に調査を加えて話にまとめた。こうして40歳の時に、490余篇の怪異小説『聊斎志異』を完成した。風邪がもとで次第に衰弱し、正座したまま76歳で死去した。死後『聊斎志異』が刊行された。(資料『蒲 松齢』孫雨田画)

17 連環画の壺 「太平天国の乱」

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図1 アヘン戦争後、英国の侵略の圧迫で、大量の農民が流民となる。

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図2 金田村で「太平天国」を建国、洪秀全は天王と称した。

壺17 太平天国の乱

広東省花県の洪秀全(こう しゅうぜん1814-1864)は、病床で上帝ヤハウェから破邪の剣を与えられ、またイエスから妖を斬る手助けを受けた夢を見た。洪秀全キリスト教の教えを信じ、偶像破壊を熱心に行った。1847年、太平天国の前身拝上帝会を広西省桂平県に創設。この地で布教活動を行い約3千人の信徒を獲得した。

1850年拝上帝会は軍事組織を結成。鉄砲や大砲を密造し、革命の準備を進め、革命の火蓋を切った。1851年1月、金田村で国号を「太平天国」とし、洪秀全は天王と称した。桂林を攻めた際には兵士は5,000人までに減少したが、1853年に南京を陥落させた時には、軍勢は20万以上に増大した。(資料 「太平天国史画」)

16 連環画の壺 「台湾史話」

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図1 オランダ人の要塞(ゼーランディア城)を攻め入る鄭成功の軍団

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図2 鄭成功(ていせいこう1624 - 1662)の死。38歳

壺16 台湾史話

オランダの東インド会社は、1624年に台湾島の大員(台南市周辺)を中心とする地域を制圧して要塞を築いた。東インド会社の台湾統治期間中、大量の漢人を募集して、土地開発を進めようとした。

「明を維持する」として清朝に抵抗していた鄭成功は、清への反攻の拠点を確保するため、東インド会社の要塞を攻撃し、1662年に東インド会社を台湾から駆逐することに成功した。

 東インド会社の駆逐を果した鄭成功は、台湾を「東都」と改名したが、1662年中に病気で死去した。(資料 連環画「台湾史話」盛元竜画