21 連環画の壺 「王羲之伝」
連環画の壺21 王羲之伝
王羲之(おうぎし303 - 361) は魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族の家に生まれた。羲之は朝廷の高官から高く評価され、護軍将軍に就任するも、しばらくして地方転出を請い、会稽郡 ( 浙江省紹興市付近)長官となった。
羲之は会稽に赴任すると、山水に恵まれた土地柄を気に入り、ここを終焉の地と定め、当地の名士たちとの交遊を楽しんだ。
354年、かねてより羲之と不仲であった王述が会稽内史を管轄する揚州刺史となる。王羲之は王述の下になることを恥じ、翌355年、病気を理由に官を辞して隠遁する。官を辞した王羲之はその後も会稽の地にとどまり続け、悠々自適の生活を過ごした。
太守李矩の衛夫人から7歳の時から書を学び、12歳の時に父の枕中の秘書を盗み見、その技量が進んだ。さらに各地を巡って古書を見、寝食を忘れて精進し、楷書・行書・草書の各書体について一家をなした。
(資料 連環画 「王羲之的伝説」浙江人民美術出版社 1980 )
19 連環画の壺 「禅宗の六祖慧能」
壺19 慧能(えのう 638 - 713)は、父を早くに亡くし、薪を売って暮らしていた。ある日、『金剛般若波羅蜜経』の読誦を聞き出家、文字が読めないため、黄梅(おうばい)の東山に禅宗第五祖、弘忍(こうにん)を尋ね、仏性(ぶっしょう)問答によって入門を許された。しばらく寺の米つきに従事した。弘忍より大法を受け継いだが、多くの弟子からねたまれるのを危ぶんだ弘忍の命令で、達磨の袈裟を持って寺から避難した。その後、広州に帰り法性寺(ほうしょうじ)の僧侶となる。翌677年、曹渓宝林寺(広東省)に移って禅法を発揚し、多くの信奉者を得た。705年朝廷に推挙されるが断り、亡くなるまで布教を続けた。(資料 精品彩絵連環画《慧能伝》)
17 連環画の壺 「太平天国の乱」
壺17 太平天国の乱
広東省花県の洪秀全(こう しゅうぜん1814-1864)は、病床で上帝ヤハウェから破邪の剣を与えられ、またイエスから妖を斬る手助けを受けた夢を見た。洪秀全はキリスト教の教えを信じ、偶像破壊を熱心に行った。1847年、太平天国の前身拝上帝会を広西省桂平県に創設。この地で布教活動を行い約3千人の信徒を獲得した。
1850年、拝上帝会は軍事組織を結成。鉄砲や大砲を密造し、革命の準備を進め、革命の火蓋を切った。1851年1月、金田村で国号を「太平天国」とし、洪秀全は天王と称した。桂林を攻めた際には兵士は5,000人までに減少したが、1853年に南京を陥落させた時には、軍勢は20万以上に増大した。(資料 「太平天国史画」)