シュールの本棚

世界で日々起きていることは、現実を超えて進んでいる

15 連環画の壺 「水滸伝/武松虎を打つ」

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図1 武松は酒を呑んだ後「虎に注意」の注意書きを読む

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図2 雑木林の向こうで、一匹の白額の虎が飛び出す

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図3 武松は飢えた虎から咄嗟に身をかわす

壺15  武松(ぶしょう)は梁山泊(りょうざんぱく)14位の好漢。あだ名は行者。故郷の清河県に帰る途中、景陽岡の人食い虎を退治し、陽穀県の都頭に取り立てられる。兄の武大と再会するが、武大は武松が出張中に西門慶に毒殺される。(連環画「武松打虎」鞠伏強画、江蘇人民出版社 1979)

14 連環画の壺 「川島芳子の死刑」

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1948年3月、北京第1刑務所の扉の前は、処刑された女性スパイの川島芳子を取材する記者で混雑していた。 ドアが開くと英米の記者が通訳を連れて中に入った。

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正午頃に閉じたドアが開かれ、損傷した遺体が2人の囚人によって運ばれた。 これは川島芳子ですか?

川島 芳子(かわしま よしこ、1907 - 1948)は、清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第14王女。

8歳のとき、粛親王の顧問の川島浪速の養女となり日本で教育を受けた。1927年に旅順で、蒙古族のカンジュルジャブと結婚式をあげ、3年ほどで離婚。 その後芳子は上海へ渡り、日本軍の工作員として諜報活動に従事。戦後、中華民国政府によって漢奸として逮捕され、銃殺刑となるが生存説がある。(資料「女間諜ー川島芳子 天津人民美術出版社 4冊本)

13 連環画の壺 「本土空襲実験」

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図1 B-25爆撃機16機が、8:20から9:19の間に発進した。その後、2〜4機のグループで日本に向かって飛行した。機は発進から6時間後の正午頃、日本に到着し、東京、横浜、横須賀、名古屋、神戸、大阪でそれぞれ爆撃した。

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図2 爆撃計画では、日本の軍事目標を爆撃し、そのあと中国に上陸する計画であった。 爆撃により、民間人を含む約50人が死亡し、400人が負傷した。

壺13 ドーリットル空襲。1942年4月18日、航空母艦ホーネットから発進したB-25爆撃機ミッチェル16機が、初めて日本本土を空襲した。ドーリットル中佐を指揮官とするB-25爆撃機16機は、日本本土各地に空襲を実施したあと、15機は中国大陸に、1機はソ連に不時着した。(「爆撃東京」 広西人民出版社出版 1987)

12 連環画の壺 真珠湾のモデル「タラント空襲」

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1940年11日21時、タラントの南約272kmで英国空母イラストリアスは、攻撃隊を発進させた。攻撃隊はソードフィッシュ雷撃機21機で第1波12機、第2波9機。

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22時58分、第1波がタラント軍港上空に到着。第1波は2機が照明弾、4機が爆弾、残りの6機が魚雷を装備していた。照明弾が投下されると爆撃と雷撃が行われた。

●壺11 タラント空襲

真珠湾攻撃(1941.12)の情報は至るところにある。しかし、別の同様の攻撃についてはあまり知られていない。それは1940年11月のイタリアの南端にあるタラント軍港への英国の空母による攻撃である。

この攻撃でイタリア海軍は戦艦3隻が損害を受け、イギリス側の損害は雷撃機2機であった。日本海軍は、タラントへの奇襲攻撃を研究したという。(資料 「奇襲タラント」湖北少年児童出版社)

11 連環画の壺 「溥儀」

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1945年5月、ドイツ軍はソビエト軍に敗北し、ソビエト軍は8月8日に日本との戦争を宣言した。その夜。 陸軍中将吉岡安直は首都を移すように言った。 溥儀は絶望的な気分で妻と若い兄弟と一緒に皇居を去った。

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8月16日、溥儀は妻を捨て、弟と甥を吉岡と連れて同じ飛行機で審陽に逃げ、飛行機で日本に逃げたいと思った。 彼らが審陽空港に到着すると、すぐにソ連の飛行機が着陸し、空港全体をソビエト赤軍が取り囲んだ。

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5年後1950年7月31日、すべての旧満州の関係者は、中国行きの列車に送られた。車内にはビールやスナックがあり、ソビエト軍の将校たちが溥儀を中国に送り返したあと、彼は処刑されるのではないかと思った。

●壺10 中国最後の皇帝

2歳で清朝皇帝に即位、退位後も紫禁城に住むが、北京政変で紫禁城を追われ、天津で日本公館の庇護を受ける。1934年満洲国の執政に就任、大満洲帝国皇帝に即位。日本の敗戦による満州帝国の崩壊で退位。

ソ連赤軍の捕虜後、1950年中国に引き渡され1959年釈放。(資料「連環画 我的前半生」河北省新華書店 1982 )

10 連環画の壺 「鑑真」

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753年11月、鑑真を乗せた船を含む四隻が、同時に出航して日本に向かう。

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12月20日、鑑真を乗せた第2船は秋妻屋浦に漂着、大安寺の僧延慶が大宰府に案内する

●壺10 鑑真  (がんじん 688- 763)

唐の揚州江陽県生まれ。14歳で得度、20歳で長安に入る。鑑真は南山律宗の継承者で、4万人以上に授戒を行った。揚州の大明寺の住職であったが、日本から来た僧から戒律を日本へ伝えるよう懇請された。

748年11月、日本に向かって出航したが、嵐にあい海南島に到着。751年鑑真は海南島を出発しての途上、端州で日本人僧の栄叡が死去。そして鑑真は両眼を失明。753年12月、鑑真は再度日本に向けて出航する。12月20日秋目に到着して来日が実現した。12月26日大宰府に到着、大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行う。

9 連環画の壺 「玄奘三蔵」

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高昌国の国王仏教を信仰し、唐の高僧の来るのを聞き使者を送る

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国王は玄奘に長い逗留を願うが、三日間の断食をして王の願いを拒否する

壺9 玄奘(げんじょう、602 - 664)は、インドから経典も持ち帰った唐代の僧

629年に国禁を犯して出国、陸路でインドに向かう。途中、高昌に至った。高昌王は仏教徒で、玄奘国師として迎えようとしたが、玄奘のインドへの思いを理解し、通過予定の国王たちに保護・援助を願う文書を持たせてくれた。玄奘は天山南路から峠を越えて天山北路へと渡るルートを辿り、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに入った。ナーランダ大学で唯識学を学び、出国から16年の貞観19年(645)に長安に帰った。