10 戦争経済 日本人の朝鮮引揚げ(1945)
第2次大戦後、当時満州にいた開拓日本人の引き上げが問題になったが、朝鮮半島にも多くの日本人が生活していた。ソ連軍が北朝鮮に侵攻した翌日の1945年8月10日、日本政府はポツダム宣言受託を連合国に通告した。米軍が日本に上陸し、9月13日、米総司令部から大本営横浜連絡委員会に、「日本海軍の艦船を復員輸送にあてるために準備し、その計画書を提出するよう」指令があった。
終戦後、朝鮮から引揚げた日本人は、朝鮮半島の南北合わせて85万人、満州・華北が130万人だった。当時、釜山と仙崎(山口県)・博多間の連絡船で、連日軍人・一般日本人を運んだが、釜山には10月はじめに2万余名が滞り、軍人を優先的に輸送して、一般日本人の輸送は遅れていた。
◎米軍政庁のたてた送還方法
日本人の引揚順位は、職業を優先的に指定していた。 (イ)は軍隊(ロ)除隊軍人とその家族(ハ)警察官、神官など、そのあとに一般市民となる。また日本人の引揚げ列車には、朝鮮人の暴行を防ぐために、MPが同乗した。
◎釜山港への列車での輸送 引揚げは、釜山港だけが指定され、配船は連合国軍総司令部の指示の下に日本の船舶運営会が行なった。また引揚者は、チフスと天然痘の予防注射をしなければならならなかった。
◎出発する日本人は、案内所に「特別輸送乗車船証明書交付願」を提出し、汽車賃を納めた。
汽車賃は、京域から釜山まで12才以上の大人が20円50銭で、汽率賃は世話会の経費から出た。
列車は11日に釜山に到着。滞留者はこちらから行った3000人を加え、1万7000人となったが、さらに増えて行った。
◎持参できるもの
引揚者は、金銀、宝石、株券などの持ち込みは禁止で、毛布はよいが、現金は1000円までである。
◎引揚者数
1945年9月27日から、翌年1月15日までの引揚げ船の航海回数は273回。うち、興安丸(定員6500人)の航海は32回だった。また朝鮮から引揚げた日本人(45年8月から12月)の総数は46万9764人だった。
(資料 森田芳夫「朝鮮終戦の記録」巌南堂書店 1964 )