15 CIAの作戦 アフガニスタン紛争(1979-89)
1978年、アフガニスタンの反政府勢力ムジャーヒディンが蜂起し、その翌年、ソ連の地上軍と空軍によってアフガニスタンは占領された。
次の10年、ソ連と戦うムジャーヒディンは、アメリカをはじめ多くの国から軍事訓練と装備を受けた。ムジャーヒディンには、イスラム世界の各地から志願兵が集まってきたが、その中心人物にウサーマ・ビン=ラーディンもいた。アフガニスタンへのアメリカの関与の多くは、CIAの役員と工作員によって行われた。1986年以降、アメリカ製のスティンガー対空ミサイル多数が、ムジャーヒディンに提供された。これがソ連の戦況におおきばダメージを与えた。
1987年7月にはソ連軍のアフガニスタンからの撤退が発表され、1989年2月ソ連軍は完全に撤退。その同じ年、アフガニスタンの首都カブールにある米国大使館では、アフガニスタンの派閥間の戦闘が増加し、安全上の理由で閉鎖され、一握りのCIA工作員が残った。
1996年9月27日、過激で原理主義のタリバンの軍隊がカブールを占領、1998年までにアフガニスタンの90%以上を支配した。13年後、2001年9月11日の同時多発テロ事件をきっかけに、CIAはタリバンがアフガニスタンで活動していることに改めて気づいた。
CIAの工作員は、タリバンに反対する北部同盟軍を支援するとともに、国に入る米英の特殊作戦部隊と緊密に協力する任務を負った。
アメリカの対テロ戦争での最初のアメリカの戦闘死者は、CIAの作戦責任者であるジョニー・マイケル・スパン( 1969 – 2001) だった。 2001年11月、スパンはマザリシャリフ近くのカラジャンギの要塞で捕えたタリバン兵士を尋問していた。そのとき、敷地内に武器を密輸していた囚人が反乱を起こした。要塞の支配を取り戻すための戦いで、スパンは殺された。CIAはその後もアフガニスタンでの活動を続けた。