16 CIAの作戦 CIAの麻薬関係史
CIAは、世界で拡散する共産主義の撲滅をその任務としていた。そのため、反共産主義活動をする組織を援助するため、麻薬の生産と売買に関与したいくつかの戦闘部隊と関係をもった。たとえばラオスのモン族、ビルマの中国国民党(KMT)の残党(KMT)、アフガニスタンのムジャヒディンがある。彼らへのCIAの支援は、彼らの麻薬販売を容認し、アジアでの麻薬生産を大幅に増加させる結果となった。
●1949年10月
中国共産党は中国国民党を破った。その後、四川・雲南方面の部隊はビルマ政府の支配がなされていないシャン州に逃れ、同州を大陸反攻の拠点として占拠した。1951年以降、CIAはビルマの国民党(KMT)を支援したが、中国の雲南省での足場を取り戻す支援に失敗した。当時、援助した武器、弾薬、物資は、CIAの民間航空輸送(エアーアメリカ)によって、タイからビルマに運ばれた。
●1961年
ビルマ軍はビルマから国民党の残党を追い出したが、彼らはラオスとタイ北部に再定住し、アヘン取引の大部分を実行し続けた。 エアーアメリカはこの国民党に軍事援助を提供しただけでなく、タイと台湾にアヘンを輸送した。CIAが財政および後方支援を撤回したあと、国民党はアヘン貿易の役割を拡大し、ビルマは最終的に世界の主要なアヘン生産者の1つとなった。
●1953-75年(ラオス内戦)
インドシナでのフランスの敗北に続いて、米国はラオスとベトナムの両方で、共産主義に対する諜報活動と軍事活動を徐々に引き継いだ。CIAは、主にラオス王国軍の少将バン・パオ(1929-2011) が率いるモン族で構成する秘密軍を運営していた。エア・アメリカはモン族に武器を運び、彼らの生産する阿片をロンチェンのCIAの空軍基地(1962年設立)に戻した。その後、ヘロインの一部は南ベトナムに送られた。1975年にアメリカがベトナムから撤退した後、ラオスは世界で3番目に大きなアヘン生産国になった。
●1978-89年(アフガニスタン紛争)
CIAはアフガニスタンに侵攻したソビエトと戦うムジャヒディン・ゲリラを支援するため、「カヴン作戦」を開始した。それには、パキスタンのカラチからアフガニスタン国境まで武器を運ぶパキスタン軍統合情報局(lSI)に援助した。しかしlSIはトラックが阿片とヘロインを積んで国境から戻ることを許可した。1989年にソビエトがアフガニスタンから撤退した後、ムジャヒディンへの援助は停止し、内戦はライバルの武将と軍隊を維持するためにアヘン生産の増加を支持した。アフガニスタンはやがて世界最大のアヘン生産国になった。
●1979-89年(コントラ戦争)
ニカラグアで1979年から1989年の10年間、サンディニスタ革命政権の政府軍とアメリカが組織した反革命傭兵軍コントラが戦った。レーガン大統領(任期1981 - 1989)がニカラグアの親マルクス主義サンディニスタ政権の打倒を誓うと、ジョージH.W.ブッシュ副大統領は、CIAが同盟を結んだ反サンディニスタ・コントラ軍の創設を承認した。もちろんCIAは、コントラ軍が麻薬密売に関与しており、彼らに武器を運ぶ飛行機が、コカインを積んで米国に戻っていることを知っていた。しかし、1982年12月8日の「ボランド修正法案」で、コントラへの資金提供を事実上遮断したため、レーガン政権は、議会の承認なしでイランへの違法な武器の販売を伴う麻薬取引を行うようになった。確かに、冷戦中にCIAが麻薬密売を取り締まったら、CIAは貴重な情報源、政治的影響力、そして違法な作戦のために必要な資金を放棄することになっただろう。(資料 CIA Encyclopedia ABC-CLlO. LLC 2016)