20 有名人のスパイ 国防軍情報部長カナリス
ドイツ軍の情報機関「アプヴェーア」(1921- 44)の長官を、1935年から44年まで務めたカナリス(1887-1945)は、ナチ政権で高い地位にあった一方、彼はヒトラーの政策には反対し続けた。
ギリシャ系実業家の息子のカナリスは、1907年からキール海軍兵学校で学んでいる。第1次大戦の開戦時には、巡洋艦ドレスデンの土官として南太平洋にいた。戦後も海軍に残り、1934 年から戦艦シュレージェンの艦長を務めている。イギリス軽巡洋艦グラスゴーから攻撃を加えられて操舵不能となり、乗組員全員がチリ当局に拘束された。しかし1915年8月初めに収容所から脱走した。1935 年1月、少将に昇進したカナリスは、海軍情報機関のトップとなる。彼は中立国スペインに派遣され、ここにUボート補給基地を作る工作任務を与えられた。
ヴェルサイユ条約と共産主義に反対する立場から、カナリスは当初ヒトラーを支持していた。しかし程なくしてヒトラーの容赦ない支配に反発を感じ、国防軍内の反ヒトラ一派を支援するようになった。1935年にカナリスは親衛隊と対立をして更迭されたコンラート・パッツィヒに代わり、国防軍情報部の部長に任じられた。この任命は、カナリスが親衛隊情報部長官ラインハルト・ハイドリヒと親交関係にあったためで、親衛隊と対立することはないだろうというのが最大の理由であった。カナリスは第2次大戦中もアプヴェーアを掌握し続けた。反ヒトラー陰謀の計画者やユダヤ人をアプヴェーアに引き入れ、彼らの身の安全に手を貸してもいる。またアプヴェーアの士官やエージェントを捜査していたSS とは、最後まで対立関係にあった。
1944 年2 月、カナリス排除を目論んだSS の活動が実り、ヒトラーは彼をアプヴェーアを長官の座から降ろし、組織を廃止する。一旦は退役に追い込まれるが、すぐに商業・経済戦担当局局長に任命された。しかし7 月20 日に発生したヒトラー暗殺未遂事件の結果、カナリスは共犯でなかったにもかかわらず7月23日に逮捕され、ミュンヘン北方のフロツセンビュルク強制収容所(写真)に収監された。1945 年4月5日、ソビエト軍がベルリンの地下壕を取り囲む中、ヒトラーはカナリスの処刑を命じた。1945年4月9日、SS の看守が彼を吊した。(資料「スパイ大辞典」論創社 2017)