3 有名人のスパイ ココ・シャネル
ココ・シャネル(1883 - 1971)は、モンローが使っていた香水の「シャネルの5番」で有名。第二次大戦中、シャネルの甥アンドレ・パラスは、ナチス・ドイツの侵攻で、マジノ線の要塞の約30万人のフランス兵とともにドイツ軍の捕虜となり、ドイツの捕虜収容所に送られていた。シャネルは、彼の解放と引き替えに、ドイツの情報機関「アプヴェーア」のスパイ活動に協力することになった。
シャネルはドイツ軍のフランス占領の期間、ドイツの外交官・諜報員のディンクラーゲ男爵(1896-1974)と交際し、ドイツに協力的な姿勢を取っていた。2人は、オペラ座公演や、ナチスがスポンサーのフォーマル・パーティーにも連れだって出かけた。
「アプヴェーア」は、シヤネルが甥の身を案じていることを知っていた。「アプヴェーア」にとって、シャネルは最高のスパイ候補者だった。彼女が必要とする甥の解放はすぐにできたし、一方彼女のほうは、ロンドンにも中立国スペインにもパリにも強力なコネをもっていた。
1941年春、「アプヴェーア」の職員ニーブーアは、カンボン通りのシャネルの店を訪れた。ニーブーアは、「マドリッドに行き、政治的な情報を入手する手助けをすれば、アンドレを解放する」とシャネルに持ちかけた。シャネルは、スペイン行きに喜んで同意した。シャネルは、「自分がイギリスへ行けば、重要人物の友人たちに経済的・政治的な情報を伝えられると灰めかした」という。こうしてシャネルは「エージェントF-7124」として「アプヴェーア」に登録された。
●シャネルの逮捕
1944年8月25日の朝に自由フランス軍はパリを制圧し、ドイツ軍のコルデイッツ将軍は降伏した。2週間後、シャネルは逮捕された。しかしシャネルはチャーチルの配慮で釈放され、運転手付きのキヤデラックでパリを脱出、スイスのローザンヌへと避難することができた。
シャネルを訴追から守るためにチャーチルが介入したという話の中の一つに、「シャネルは、チャーチルが成立させた敵国通商法を無視したことを知っており、裁判で公になるのを防ぐためだった」という説がある。
資料 ハル・ヴォーン「誰も知らなかったココ・シャネル」2012