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19 有名人のスパイ  CIA長官アレン・ダレス

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アレン・ダレスの著書とダレス

 第5代CIA長官(1953-61)のアレン・ダレス(1898–1969)は、CIA最初の民間人長官で、CIAの歴史の中で劇的な役割を演じた。

   彼は1910年にプリンストンに入学し、卒業後すぐに米国国務省に採用され、外国でのキャリアを開始した。

 英国のチャーチル直属の諜報員「イントレピッド」から諜報活動を学んだ後、ダレスはウィーンに派遣された。1916年7月に到着し、ドイツとオーストリアハンガリーに関する政治情報の収集を任された。

  アメリカが第一次大戦に参入したとき、彼はウィーンでの諜報活動と外交活動はスイスのベルンに移転し諜報部長になった。1918年11月に戦争が終了すると、彼は米国国務省の諜報部に所属し、ベルリンのアメリカ公使館に異動した。

 1926年、ダレスはジョージ・ワシントン大学で法学位を取得した。翌年、ヨーロッパに戻り、1932年と33年のジュネーブ軍縮会議の法律顧問を務めた。

 1942年、彼は戦略情報局(OSS)の前身である情報調整局(COI)に加わり、OSSのニューヨークオフィスの責任者になった。このオフィスは、OSSと北米の英国秘密情報部との間で北米のトレーニングと情報収集の取り組みを行っている。

   1942年11月、ダレスはスイスに戻り、ベルンにOSS秘密諜報局を設立した。

ナチスが1945年に降伏したとき、彼は西ドイツのヴィースバーデンで局長(COS)になるが、 11月にニューヨークでの法務に戻った。

●戦後の活動

 1946年、ダレスは外交問題評議会(CFR)の議長に任命された。彼はまた1947年の国家安全保障法の起草を支援し、アメリカの国防システムを再編成し、中央情報局(CIA)を設立した。

  1952年2月、アイゼンハワー大統領は、彼をCIA長官に任命した。彼の在職期間の活動は、情報収集ではなく秘密作戦で、イラン・クーデター、グァテマラ・クーデター、U-2偵察機プログラムなどに関与した。しかし、1961年のピッグス湾事件での失敗で、ケネディ大統領はダレスの辞任を求めた。

  引退にもかかわらず、彼は1961年11月にCIAのラングレー本部ビル完成式典でケネディから賞賛された。1969年1月、ダレスはインフルエンザで死亡した。 71歳。(資料 Encyclopedia of the Central Intelligence Agency, Facts On File. 2003)