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6 有名人のスパイ 真珠湾のスパイ 吉川猛夫

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吉川猛夫と真珠湾攻撃

 吉川猛夫(1912 - 1993)は、海軍軍人で、真珠湾の軍艦の動きを監視し、それを海軍情報部に報告する任務を受けていた。吉川少尉は海軍情報部のアメリカ担当に任命され、四年間英語を学んでいた。吉川は一時、海軍から外務省に配転された。その外務省時代を通じて、ハワイでの諜報活動の具体的な指示を受けた。こうして1941年3月、彼は「森村正」という偽名で副領事としてホノルルに派遣された。彼は暗号を使って領事館に報告するよう命令された。

 吉川は経験不足を努力で補った。彼は海岸線の勾配や波の高さを知るために泳ぎに行き、頭のなかに叩き込んだ。夜になると、海岸近くのバーに出かけ、アメリカの水兵に話しかけたり、日系二世の女たちから情報を仕入れたりした。彼がよく通った店のひとつに、真珠湾が一望のもとに見渡せるレストラン「春潮楼」があった。

 吉川は用心深く行動したが、ときには派手に振舞うほうが、かえって怪しまれずにすむと考えた。無類の酒好きのうえに、女道楽が激しいので、いやでも人目を惹いた。事実、アメリカ情報部は吉川をマークし、電話を盗聴していた。とはいえ、吉川が情報部員であることも、彼がアメリカ艦隊の動向を東京に報告し続けていることには気づかなかった。

 パープル・コードによる吉川の東京に宛てた通信は、永井ハワイ総領事の名前で送られた。こうして吉川は1941年3月27日から真珠湾攻撃の直前まで、情報を送り続けた。東京から吉川に伝えられた重要な質問は、「真珠湾に最も多くの艦艇が集結するのは何曜日か」であった。吉川の答えは、「日曜日である。キンメルは週末にはかならず艦隊を真珠湾に入港させる」。

 開戦後、吉川は他の総領事館員とともに軟禁状態となり、アリゾナの収容所へ入れられたが、証拠不十分で正体が発覚することなく、他の総領事館員とともに無事日本へ帰った。(資料 リチャード・ディーコン「日本の情報機関」時事通信社)