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5 有名人のスパイ 「満州のローレンス」土肥原賢二

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土肥原賢二

 土肥原賢二(どひはら1883 - 1948)は、昭和2年(1927)4月に歩兵第3連隊附の位階で中国出張。7月に大佐に昇進。彼は長年中国で暮らすうちに、中国語を完壁に話すようになり、多くの地方語も習得した。がっしりした体格の偉丈夫であるうえ、陽気で外向型の性格だったため、誰とでもすぐに友達になった。このあらゆる階級の人間と付き合う才能が、大いに誤解を招くことになった。(リチャード・ディーコン)

 昭和6年(1931)夏、奉天特務機関を設置。この機関は、奉天での諜報作戦を効果的に統制する組織だった。土肥原は1931年9月、奉天臨時市長となる。9月18日に中華民国奉天郊外の柳条湖で、南満州鉄道の線路を爆破した柳条湖事件が起る。1931年11月、甘粕正彦(1891―1945)を使い、皇帝溥儀(1906―1967)を天津の日本租界の張園から脱出させる。薄儀を満州国元首に就任させたことは、間違いなく土肥原の最大の業績であるといわれる。その後、中国北部の五省を国民政府の支配から切り離し、自己の勢力下に置こうとした工作を推進し、1935年6月 土肥原と国民政府の察哈爾 (チャハル) 省主席代理の秦徳純(しんとくじゅん)協定を締結。これによって日本軍は、満州から華北への南下を本格的に開始し、大陸全土への進出が可能になった。

 土肥原は、謀略をも辞さない強硬な対中政策の推進者として昇進を重ねた。日中戦争では昭和13年(1938)6月、土肥原機関を設立。東京裁判A級戦犯となり、死刑判決を受け処刑される(64歳)。