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2 CIAの作戦 チベット抵抗支援 (1957-72)

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「CIAのチベット秘密戦」表紙とチベット人ゲリラ

  1950年10月、中国人民解放軍は「チベット和平解放」と称して、チベット東部のカムド地方に侵攻した。チベットの抵抗運動は弾圧され、多数の市民が犠牲となった。

 1957年はじめ、チベット人商人ゴムポ・タシは、ダライ・ラマ14世(1935ー)の右腕である僧院長と極秘に連絡を取り、合同で武装抵抗することを切り出した。しかしダライ・ラマは、この支援要請を断った。

 そこでゴムポ・タシは、ダライ・ラマには知らせず、CIA からの軍事支援を得た。そして特殊訓練に6名のチベット人が選ばれた。これが長期にわたる作戦のはじまりだった。

 作戦は《セイント・サーカス》と呼ばれ、チベットの抵抗運動に、武器と訓練を提供するものだった。手始めにCIA の設立した訓練所で、チベット人は、4ヶ月半におよぶゲリラ戦に関する集中教練を受けた。彼らの訓練の最終段階はパラシュートとで降下する訓練で、機体はCIAが空軍のBー17を使用し、操縦は民間航空輸送「エア・アメリカ」が担当した。

 1958年2月、2番目のチベット人グループが、訓練のためアメリカに派遣された。今回の訓練は標高は3000メートルの第10アメリカ山岳師団の基地で、コロラド州の山岳地帯レッドヴイルである。

 その間、CIA は武器をチベットに投下しはじめていた。最初の投下は1958年7月に行われた。嘉手納にあるCIAの東アジア兵姑基地の航空補給を担当するメンバーによって、武器と装備の容器が積載された。1959年7月から1960年5月までに、40回以上の投下が実行され、訓練を受けた約85名のゲリラと80万ポンドの武器、装備、医薬品が届けられた。

 人民解放軍のラサ攻撃

  1959年3月、中国人民解放軍が首都ラサを攻撃し、数万人におよぶチベット人を殺し、多くの建物を破壊した。こうなると、ダライ・ラマはインドに亡命せざるを得なかった。この逃避行のあいだ、CIA と無線交信を維持し、作戦の監督官にダライ・ラマらが南に向かっていることを伝えていた。

  一方アメリカでは、ゲリラ・チームの訓練が続いていた。1959年9月、コロラド州キャンプ・ヘイルで訓練を受けたチベット兵6グループのひとつが、チベットに派遣された。ラサの北西約320キロのナム湖畔のリンツォ地域に、9人が降下をした。彼らの任務は、4000名のゲリラ兵を率いている抵抗運動の指導者と接触し、人民軍車輛隊に連続攻撃を仕掛けるよう説得することだった。

 1959年12月、2機のC-130A が武器の投下を行い、1680挺のライフルと37万発の弾薬を届けた。

 1960年、中国の軍隊はチベット南半部の支配を確立した。

 ケネディー大統領は、1961年3月中ごろ、CIAにチベット・ゲリラへの支援継続を認めた。

 1962年、ネルー首相の支援要請を受け、アメリカとイギリスは、総額1億2000万ドル相当の軍事支援を与えることが決まった。同時にチベットでのゲリラ作戦に、CIAはチベットでの中国情報収集機関を設立することと、チベット人のキャンプ・ヘイルでの訓練も決まった。

 1972年2月、ニクソン大統領の訪中による米中国交正常化にともない、アメリカはCIAによるチベットへ支援を打ち切った。(資料 ピーター・ハークレロード「謀略と紛争の世紀」原書房 2004年)