3 CIAの作戦 イラン・クーデター(1953)
反イギリス政策を掲げる議員のモサデク(1882 – 1967 )は、1951年に行われた民主的選挙で首相に就任した。就任後彼は、英国の所有するアングロ・イラン石油会社(AIOC)を含む、すべての外国の石油会社の国有化を命じた。
これに対し AIOCでは、儲かるビジネスであり、イギリス海軍の軍艦に燃料を供給する責任を負っていたため、激怒した。イギリス秘密情報部MI6とCIAが協力して作戦が練られ、1952年にMI6が調査、1953年にCIAはクーデター計画(AJAX)を開始した。しかしトルーマン大統領は、作戦には消極的だった。
●「AJAX」作戦開始
1953年1月に大統領がアイゼンハワーになると、米のイラン政策は180度転換した。彼はソ連がイランの同盟国になることを恐れ、CIAに「AJAX」作戦のゴーサインを出した。
1953年7月下旬、ルーズベルト大統領の孫で、CIAの計画(作戦)局長のカーミット・ルーズベルトは、パーレビ国王と会い、モサデクを解任するなら米英が支援すると伝えた。
ルーズベルト局長はテヘランでのクーデターの準備を始めた。彼の計画は、クーデターに参加する人間に金をばらまくことであった。そのため、犯罪者や多くのデモの協力者を雇い、彼らに百万ドルの現金を用意した。
●イラン・クーデター始まる
1953年8月14日、パーレビのモサデク解任の文書がモサデク首相に届けられた。翌朝、モサデクはパーレビを非難するラジオ放送をし、シャーが外国が後援するクーデターを開始したと非難した。 一方、次期首相となるザヘディ将軍は、モサデクを非難し、彼自身を正当な首相と宣言して、彼自身のラジオ声明を発表し始めた。
●イラン・クーデター成功する
8月19日、ルーズベルトが雇ったデモ隊が街の通りをパレードし始めた。約200人の曲芸師に率いられて、デモ隊はモサデクの家に向かって行進し、「シャーは永遠だ」と叫んだ。
工作員は、途中でお金、シャーの写真、そしてイランの旗を観客に配り、そしてすぐにデモ隊の数は膨らんだ。
少なくとも2つのモサデク系新聞社が焼かれ、ラジオ局が押収され、親シャー軍と親モサデク軍の間で衝突が起こった。その日の終わりまでに、少なくとも300人が死亡した。
ザへディ将軍は、自宅からラジオ局まで戦車で移動し、クーデターの成功を全国に放送した。一方のモサデクは、街から逃げようとしたが、後に逮捕された。
イランにほんの一握りのCIA工作員しかいなかったにもかかわらず、作戦は滞りなく行われた。25年後の1979年、ホメイニーがイランでの権力を掌握したとき、シャーは再びイランからの脱出を余儀なくされた。(資料 Thomas Smith, Jr. Encyclopedia of the Central Intelligence Agency 2003)