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8 CIAの作戦 ピッグス湾の侵攻(1961)

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事件後の「LIFE」表紙と作戦での捕虜

  キューバ革命から2年後の1961年4月17日。CIAの支援で軍事訓練された亡命キューバ人部隊が、キューバに侵攻してカストロ政権の打倒を試みたピッグス湾の侵略「ザパタ作戦」が実施され、CIA史上最悪の失態をもたらした。

 CIAが資金提供し計画された侵略は、4月15日「フリー・キューバパイロットによる効果のない空襲で始まった。一方

カストロの空軍は、6機のB-26、4機のT-33トレーナー、およびイギリス海軍戦闘機で構成されていた。

 キューバ空軍に偽装した複数のA-26は、戦闘機の収容先のキューバ軍基地を攻撃した。36機の戦闘機のうち5機を破壊したが、味方の飛行機は4機が撃墜された。

 最初の爆撃の2日後、グアテマラで戦闘訓練を受けた反カストロ軍の1,543人が、ピッグス湾のの海岸線に沿ったいくつかの地点でボートから下船。ビーチを攻撃し始めた。主な輸送手段は、5隻の2,400トンのチャーター船と、CIAが所有する2隻の歩兵上陸用舟艇である。キューバ空挺部隊が海岸堡の北に上陸すると、これに対し約20万人の政府軍がで迎え撃った。また政府軍のロッキードT33戦闘機から爆撃を受けて武器弾薬や食糧そして医療品などを積んだ補給船が撃沈された。また政府軍の飛行機は、侵略軍と輸送船やボートを攻撃し始め、多くを沈めた。さらにピッグス湾沿いの浅瀬が珊瑚礁を覆い、多くの上陸部隊がビーチから遠く離れた場所で下船することを余儀なくされた。窮地に立たされたCIAと軍は、上陸部隊を救うためにアメリカ軍の直接介入を求め、ヒロン浜の沖合に待機していたジェット戦闘機による支援を求めたが、大統領はこれを拒否した。

 その結果、侵略軍の114人のメンバーが殺害され、1,200人近くが捕虜になった。

 任務が中止された直後に、ケネディ政権は攻撃中に捕らえられた戦闘員の解放のため、カストロと交渉を始めた。

数ヶ月の交渉の後、カストロは5300万ドル相当の食料と薬と引き換えに解放に同意した。 

 作戦崩壊から3日後、ケネディは「ザパタ作戦」の失敗の理由を突き止めるため、テイラー委員会を設立した。委員会は調査結果を53ページの報告書にまとめ、1961年6月に大統領に提出した。この事件の結果、3人のCIA高官が解雇され、CIA長官のダレスをジョン・マコーンに置き換えた。