シュールの本棚

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21 ベルリンの盛衰  クルップと朝鮮戦争特需

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クルップ裁判、(左)アルフリート・クルップ

 クルップ(Krupp)社は、ドイツの製鉄業、兵器製造メーカーとして長い歴史を持つ企業である。第二次大戦では、ドイツ国防軍用に戦車・砲・軍用トラックなどの兵器を製造した。
 大戦後、グスタフ・クルップ前会長 (1870 – 1950 ) は、ニュルンベルク裁判で起訴されたが、高齢で公判に耐えられないとして起訴を取り下げられた。その後、グスタフの息子アルフリート・クルップ会長(1907 – 1967)とクルップ社幹部が裁かれた。
●有罪判決
 1948年7月31日にアルフリート・クルップに判決、「被告人に12年の禁固および動産・不動産を問わずいっさいの財産の没収を命ずる」と、判決文は6万語に及んだ。
朝鮮戦争勃発
 1950年6月25日、北朝鮮の軍隊が38度線を越えて韓国に侵入した。
ルールの鉄鋼貴族たちは、これによって交渉の際の発言力を増した。1950年6月、西側連合国が西ドイツに駐屯させていたのは、兵員不足の七個師団だった。ソ連管理地区には、赤軍が22個師団、その後方には新生東ドイツ軍が控えていた。ソヴィエト衛星国には大砲とTlM戦車が配備されていたが、当時西側には、小銃を持った兵が並んでいるだけだった。彼らの装備にまわすべき軍需物資は、放出品やスクラップとして売られていた。NATOからパリに戦闘命令の要請があったとき、フランスは弱体な二個師団しか出すことはできなかった。  朝鮮戦線が中国の人海戦術の圧力におされて崩壊しつつあるころ、米国の戦略家たちは、西ドイツにどう協力させるかを討議していた。
●ドイツの朝鮮戦争特需
 1950年末、イギリスとアメリカとフランスは、1100万トンという西ドイツの鉄鋼生産の上限を撤廃し、ルールの工業家たちに、共産主義との戦いに協力するよう強く求めた。
 1950年12月には、20万5000人の国連軍兵士が輿南から海路を撤退しはじめた。このころブリッセルに集まった西側諸国の代表は、アイゼンハワーを西欧防衛軍の最高司令官に選んでいた。そして3国の高等弁務官たちは、ドイツに軍隊をつくるよう指示されたのである。
 この時ドイツの囚人たちへの恩赦も考えられ、戦犯第一刑務所にいる死刑囚28人のうち21人が死刑を免除された。1951年1月アルフリートが釈放されてから11ヵ月のあいだにドイツの鉄鋼生産量は1350万トンに達し、2年のうちにさらに100万トン、そして翌年には1800万トンという数字に達した。 1953年7月27日朝鮮戦争は停戦を迎えた。(26章)( 資料 W・マンチェスター著「クルップの歴史」フジ出版社1982 )