18 ベルリンの盛衰 ベルリンの壁崩壊
ドイツは東ドイツと西ドイツで分裂していたが、東西ベルリンの境界線を無視して東側から西側への人口流出が続き、東ドイツに深刻な影響を与えた。1945年から1961年までに東ドイツから西ドイツに移った人は約300万人に達した。東ドイツは1961年8月13日、東西ベルリン間の通行を遮断するため、西ベルリンの周囲をすべて有刺鉄線で隔離、のちにコンクリートで壁を作った。このベルリンの壁は、1961年から1989年までベルリン市内に存在した。
●壁の犠牲者
壁が存在している間、壁を乗り越えて西ドイツに越境しようとした市民が死亡する事態が続いた。1961年8月から1989年11月までの28年間に、5000人以上が越境したが、200人以上が越境できず死亡し、3000人以上が越境に失敗して逮捕された。
東西ドイツの間で1961年から1988年までに総計23万5000人が「共和国逃亡」によって西ドイツに逃れた。ベルリンの壁を超えようとした未遂及びその準備をした者はおよそ6万人以上で、有罪判決を受けて、平均4年の禁固刑であった。
●壁の崩壊
「旅行許可の規制緩和」があったが、東ベルリンから西ベルリンに行くには正規の許可証が必要であった。しかし1989年秋の東欧革命にともなう東ドイツの混乱で、11月9日には壁の国境検問所が機能しなくなり、やがて壁そのものが撤去された。これが「ベルリンの壁」の崩壊である。
混乱の中で東西の検問所ともに許可証の所持は確認されなかったため、許可証を持たない東ドイツ市民は、徒歩や国民車で西ベルリンに雪崩れ込んだ。
ベルリンの壁は、11月10日未明になるとハンマーやつるはし、建設機械が持ち出され、ベルリン市民は自主的に壁の破壊を始めた。こうして「ベルリンの壁」は、建設開始から28年後の1989年11月10日、ついに壁の解体が始まった。
数日後には東側によって、重機を用いての正式に壁の撤去作業が始まり、東西通行の便宜が計られるようになった。
(資料 ウィキペディア(日本)、(写真=U.S. DEPARTMENT OF STATE「the Berlin Wall 20Years Later」2009より)