シュールの本棚

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1ベルリンの盛衰  ベルリンの鉄道開発

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ポツダム駅(1838)

 1830年代の初めには、ベルリンの鉄道網の建設に対する抵抗があった。これは、プロイセン政府の計画が主に高速道路の拡張にあっためである。1834年プロイセン内務省はベルリンとライプツィヒ間の鉄道路線の建設を拒否した。ベルリンの弁護士J.C.ロバートの努力によってベルリンからポツダムまでの鉄道路線に削減する計画が提示された。
 1836年1月の内閣命令で、プロイセン王はレール建設の承認を確認した。多くの個人株主が1837年にベルリン-ポツダム鉄道会社を設立するに協力した。ただし機関車や線路など、すべての技術製品はイギリス製が用いられた。1838年9月22日、この路線は最初のプロイセン鉄道として運行された。26kmの距離で所用時間は約40分。

 1840年代には、鉄道がベルリンの重要な輸送手段になった。1847年と1848年には、150万人の旅行者が鉄道網を経由してベルリンに来た。1841年にベルリンとザクセン王国(現ザクセン・アンハルト州)を結ぶアンハルトへの路線が完成。1846年まで、ベルリンはブレスラウ(346km)へ接続した。同じ年にハンブルク(289km)への接続が続いた。1844年には、鉄道路線がベルリンと4つの主要地点すべてを結んだ。これにより、通信、商取引、産業が加速した。郊外の鉄道駅は、馬車で相互に接続されていた。1840年頃、約1000台のタクシーやその他の貨車が使用されていた。(資料 ドイツ語ウィキペディア