シュールの本棚

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1 イスラエルの作戦 核兵器プログラム(1948~)はじまり

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ディモナの原子炉研究センター(出典 israeldefense.co.)とベングリオン

 イスラエルは、国家設立直後の1948年、核の選択肢を検討し始めた。1949年、イスラエル国防軍の科学部隊Cは、ウランの埋蔵量を測定するため、ネゲブ砂漠の地質調査を開始した。1952年にイスラエル原子力委員会が設立され、ネゲブで見つかったウランを抽出するプロセスに成功していた。

 1957年10月、フランスとイスラエルは、ネゲブ砂漠のディモナに研究用原子炉を建設することで合意した。フランスとイスラエル工作員は秘密裏に複合施設を建設し始めた。フランス空軍は、第三国に移送されないことを条件に、ノルウェーから購入した後、密かに4トンもの重水をイスラエルに送った。 

 1960年、フランスがイスラエルに、ディモナを国際検査に提出するよう要請したとき、建設工事は問題に直面した。フランスは、特に再処理工場でイスラエルを支援したことで、スキャンダルになることを恐れたのである。1958年、米国のU-2偵察機が建設中の施設の写真を撮ったが、当時米国は、それを原子炉として特定していなかった。

 1960年12月、イスラエルベングリオン首相は、ディモナの原子炉研究センターが「平和目的」のものと発表した。 1964年にディモナ原子炉が開設された後、プルトニウムの生産を開始した。

 ディモナの原子炉と地下再処理工場には、ウラン処理施設、廃棄物処理施設、燃料製造施設、実験室、劣化ウラン弾工場があり、 ウラン濃縮試験のための施設も含まれている。 核技術に関するイスラエル南アフリカの協力は1967年頃に始まり、1970年代から1980年代まで続いたといわれ、その間、南アフリカはディモナの主要なウラン供給国だった。ダヴィド・ベン=グリオン - Wikipedia

 1967年の第三次中東戦争中に、イスラエルは最初の開発された2つの爆弾で武装していた可能性がある。1968年、米国の水素爆弾の父エドワード・テラーからの情報に基づいて、米国中央情報局(CIA)は、イスラエル核兵器の製造を開始したと結論付けた。イスラエル軍は、1973年の第四次中東戦争での敗北を恐れ、それぞれ20キロトンの爆弾13発を使用する準備をしたことも報告された。ミサイルと航空機は、エジプトとシリアの標的への攻撃のために爆弾で武装していた。1991年の湾岸戦争中、イスラエルの都市で7発のイラクスカッドミサイルが発射されたとき、イスラエルは本格的な核警戒を続けた。資料(「イスラエル諜報史辞典」Scarecrow Press 2006)

20 CIAの作戦 ビンラディン暗殺 (終わり)

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ビンラディンの隠れ家とRQ-170ドローン

  アルカイダのリーダーのビンラディン暗殺計画は、CIAの作戦「ネプチューンの鎗」で、2011年5月1日、米海軍のSEALチームによって実行された。

 CIAが2002年に得た情報が、ビンラディンを見つける手がかりとして、アルカイダの宅配便に関する情報を入手した。宅配便業者はビンラディンの仲間で、CIAは2010年8月に彼をアルクウェートと特定した。その後、ビンラディンはアボタバードの隠れ家に戻った。

 アボタバード市は、パキスタンの北部のアフガニスタン国境から約100マイル。アボタバードの狭い道路の端にある3階建ての建物で、2004年に建てられた。この複合施設には、固定電話やインターネットはなく、住民はゴミを屋外に置かずゴミを燃やした。

 「ワシントンポスト」によると、「情報収集には広範で費用がかかるため、CIAは2010年12月に議会に出席し、数千万ドルの資金を確保した。

 CIAチームは、情報提供者から、居住者の身元と動きを確認するために、建物に関する情報を収集した。機関はまた、RQ-170ドローンからのデータを分析し、建物の3次元レンダリングを開発した。住宅の交通パターンを説明するスケジュールを作成し、建物の居住者の特性を評価した。収集された情報について、CIAはビンラディンが実際に敷地内に居住しているかどうかを詳細に調査した。 

●作戦決行

  現地時間の午前1時。統合特殊作戦コマンドの米海軍特殊部隊開発グループ(DEVGRU)から、米海軍SEALsが建物への攻撃を主導した。DEVGRU SEALsは、アサルト・ライフルと機関銃、およびボディアーマーや暗視ゴーグルなどで武装した約12人のメンバーからなる2つのチームである。

 彼らはアフガニスタンのジャララバードにあるステージング基地から、パキスタンに飛んでいた。米国はパキスタンと合法的関係がないため、この作戦はCIAの管理下に置かれた。

 I60特殊作戦航空連隊は、SEALsチームを2機の改造ブラックホークヘリコプターで市内に輸送した。2機のうち1機は、着陸時に墜落事故で甚大な被害を受けた。このヘリコプターは、パキスタン軍に渡らないように爆破された。

 SEALsは、数人の見張りを射殺した後、本館の3階で非武装ビンラディンを発見した。 ビンラディンが射殺された後、彼の遺体は回収され、身元確認された。襲撃は全部で約40分かかった。

 攻撃では、ビンラディンに加えて、他の3人の男性と1人の女性が殺された。殺害されたのはビンラディンの息子。 ビンラディンの宅配係。その兄弟アブラーとアブラーの非武装の妻。

 ビンラディン以外の遺体は敷地内に残され、パキスタン当局に収集された。2機のヘリコプター、 1機は作戦で使用されたブラックホーク、もう1機は着陸で破損したため予備のチヌークで、現場を脱出した。(参考 CIA Encyclopedia ABC-CLlO. LLC 2016)

19 CIAの作戦 モスクワオリンピックのボイコット

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モスクワ・オリンピックとターナー長官

 1980年モスクワ・オリンピックは、1980年7月から16日間、モスクワで開催された。この大会に、米カーター大統領は、前年12月のソ連アフガニスタン侵攻を理由にボイコット(1980年1月)した。以下は、1月9日づけのCIA長官から大統領へのボイコットに関する関連メモの内容である。

 

●1980年1月9日のメモ 宛先 大統領他 テーマ「ソ連:オリンピックの準備:

1. 添付書類「ソ連:オリンピックの準備」は、オリンピックのボイコットの可能性に関する、興味深い資料の可能性あり。
 CIAのアナリストによれば、ソ連国内でのボイコットによる影響は、西洋化する一部の反体制派には良いが、外国人排斥に対する傾向が強化されることで、相殺されると考えられる。

  国際的には、ボイコットがアフガニスタン問題を継続させ、ソビエトを国際社会の複数の組織からの継続的な批判の矢面に立たせることになる。

   しかしソビエトはまた、ボイコットに同情的な国際的な聴衆の前で苦しむ党の役割となり、ボイコットに対する国際的な意見の不一致を利用して、米国と非ボイコット国との緊張を悪化させることになる。

2. ボイコットによる経済的損失については、わずかと考えている。主に、損失は観光と放映権からの収入の減少に限定される。

   ソビエトは、推定2億5000万ドルの収入を見込んでいる。しかしこの収入の大部分(おそらく3分の2)は手元にあり、ソビエトはボイコットが発生した場合、すでに受け取った現金の払い戻しを躊躇するだろう。

 たとえば、米国の放映権に対する7400万ドルの援助のうち、500万ドルを除くすべてがすでに支払われている。ゲームへの参加を希望する外国人観光客(少なくともアメリカ人)は、1979年末までにオリンピック・パッケージツアーの前払いを義務付けられた。ゲームの完全なキャンセルを除いて、モスクワは、個々の参加国に関係なく、外国人観光客を歓迎すると主張するだろう。               

             CIA長官スタンスフィールド・ターナー(CIA2011年7月20日公開資料より)

18 CIAの作戦 9.11攻撃予測の失敗

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「9.11百科事典」表紙とCIA長官テネット

 2001年9月11日の朝、アルカイダがおこなった同時多発テロ攻撃で2,977人が死亡した。 米国本土でのテロに対する監視はFBIの責任だったが、CIAは国際的な情報収集の責任があった。いずれにせよ、事件は未然に防ぐことが出来ず、CIAもFBIも面子を潰した。

 この事件が防止できなかった一番の理由は、両方の組織が情報を共有していなかったことがあるといわれている。以下はCIAの事情である。

 1990年代の初めと半ばに、CIAはスタッフを20%削減することで、人的能力を低下させた。1990年代後半までに、現地の工作員の数を欠いていた。 言語スキル、 そして組織への介入によってテロ活動の動きを探知することの重要性はわかっていたものの、CIAは、友好的な諜報機関と政治部門からの情報報告に依存していた。

  現地のエージェントは、テロ組織との接触を失うことを恐れ、CIAがFBIと情報を共有することに消極的だった。この恐れの一部は、2つの機関の役割の違いがある。情報の共有が情報の発信者を危険にさらす可能性があるため、CIAは重要な情報の共有を望まなかった。またCIAが問題を抱える人物を採用する際に、本部からの事前承認を求める必要から、諜報員の採用が困難になった。この決定は、グアテマラでのCIAの情報提供者が殺人に関与したことで、何百人もの有給の情報提供者がCIAから解雇された。

 中東の現地工作員の活動は、このパージで終了した。この制限は2001年9月11日も引き続き実施されていた。CIAのエージェントは、1998年以来、ビン・ラディンアフガニスタンでの活動を監視する30人のアフガニスタン人を募集することができた。彼らはそれぞれ、この任務で月に1万ドルを受け取った。
 テロ対策センターと、そのアレックステーション・ユニットのアナリストは、アフガニスタン工作員やミサイル攻撃を使用して、ビン・ラディンを無力化する作戦を何度も提案した。しかし、これらの操作はいずれも承認を受けなかった。問題の一部は、ビン・ラディンがとらえどころがなく、不規則な時間に移動していたことがあった。国内および国際世論を怒らせ、巻き添え被害の恐れもあった。

 クリントン政権(1993 - 2001.1) は、CIAを信頼しておらず、決断力の欠如によって麻痺していた。CIAデッチ長官を引き継いだジョージ・テネット(任期1994.7 - 2004)は、クリントン政権からブッシュ政権に移行するまで、ビン・ラディンアルカイダの危険性について、絶えず両政権に警告していた。そこでクリントン政権はテロの脅威を認識するようになったが、テネットはブッシュ大統領との協力関係を築くことができたが、テロとの戦いの対策に間に合わなかった。CIAの監察官の報告書は、テネットが、CIAの総合的戦略の欠如に対して「究極の責任」を負っていると述べた。(資料 The 9/11 Encyclopedia CBC-CLIO.LLC 2011)

17 CIAの作戦 ドローン

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MQ-9リーパーとRQ-1プレデター(右上)

 CIAが諜報機関の業務に使用している無人航空機(UAV=Unmanned Aircraft Systems)は、目標とする地域の監視および偵察(ISR=intelligence, surveillance and reconnaissance)に使用される。しかしこれらのUAVのいくつかは、空対地ミサイル(AGM=air-to-ground missile)で武装された機種も実用化されている。この種のドローン(雄蜂)は、1990年代にCIAと米国空軍によって、対象となるエリアへの深い侵入と前方空中観測のために開発された。無人機はパイロットの安全を考慮する必要が無いため、RQ-4のように偵察に特化した機体設計が可能となった。

 無人攻撃機(UCAV=Unmanned Combat Aerial Vehicle) では、偵察で目標を発見した際、そのまま攻撃任務に移行する機種が実用化された。RQ-1プレデター(RQ-1のRは偵察=Reconnaissance、Qは無人機)が、MQ-1プレデター(M=多用途、マルチ)となり、MQ-9リーパーが作られた。

 CIAと国防総省の合同プレデター便は、2000年にアフガニスタン上空でオサマ・ビン・ラディン(1957 - 2011) を捜索し始めた。この便はウズベキスタンの秘密基地から出発。60日間の「アフガン監視プロジェクト」は成功した。非常に鮮明なリアルタイムの画像を提供し、CIA傘下のテロ対策機関CTCの責任者コファー・ブラック(1950生)は、オサマ・ビン・ラディン抹殺に武装プレデターが使えると考えた。彼やCIAの圧力でアメリカ空軍の武装プレデターの開発は大幅に加速され、その運用はブラックが役員を務める民間軍事会社ブラックウォーターが請け負ったとされる。

  CIAはすぐに武装したMQ-Iプレデターを、その増加する在庫に追加した。9/11攻撃の後、米国はパキスタンウズベキスタンから、アフガニスタン上空でMQ-Iを操作する許可を確保した。

 アフガニスタンでの最初の武装任務は2001年10月に始まり、攻撃は2002年に始まった。そして2004年までに、機はパキスタンのシャムシー飛行場が利用された。アフガニスタンパキスタンの国境沿いの部族地域で、タリバンアルカイダの標的を攻撃。CIAの無人偵察機攻撃機もイエメンの基地から活動している。ヘルファイア・ミサイル攻撃で、アフガニスタンパキスタンで、多くの著名なアイカイダの指導者と過激派が殺害されたが、民間人の死傷者も出た。

 現在CIAドローンは、ラングレーにあるCIA本部のミッションチームによって操作されている。この無人航空機の性能は、最大24時間の飛行時間で、航続距離と一定場所に留まるロイター飛行能力も拡張している。

16 CIAの作戦 CIAの麻薬関係史

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ケシ畑とエアーアメリカの輸送機

 CIAは、世界で拡散する共産主義の撲滅をその任務としていた。そのため、反共産主義活動をする組織を援助するため、麻薬の生産と売買に関与したいくつかの戦闘部隊と関係をもった。たとえばラオスのモン族、ビルマ中国国民党(KMT)の残党(KMT)、アフガニスタンのムジャヒディンがある。彼らへのCIAの支援は、彼らの麻薬販売を容認し、アジアでの麻薬生産を大幅に増加させる結果となった。

●1949年10月

 中国共産党中国国民党を破った。その後、四川・雲南方面の部隊はビルマ政府の支配がなされていないシャン州に逃れ、同州を大陸反攻の拠点として占拠した。1951年以降、CIAはビルマの国民党(KMT)を支援したが、中国の雲南省での足場を取り戻す支援に失敗した。当時、援助した武器、弾薬、物資は、CIAの民間航空輸送(エアーアメリカ)によって、タイからビルマに運ばれた。

●1961年

 ビルマ軍はビルマから国民党の残党を追い出したが、彼らはラオスとタイ北部に再定住し、アヘン取引の大部分を実行し続けた。 エアーアメリカはこの国民党に軍事援助を提供しただけでなく、タイと台湾にアヘンを輸送した。CIAが財政および後方支援を撤回したあと、国民党はアヘン貿易の役割を拡大し、ビルマは最終的に世界の主要なアヘン生産者の1つとなった。

●1953-75年(ラオス内戦)

 インドシナでのフランスの敗北に続いて、米国はラオスベトナムの両方で、共産主義に対する諜報活動と軍事活動を徐々に引き継いだ。CIAは、主にラオス王国軍の少将バン・パオ(1929-2011) が率いるモン族で構成する秘密軍を運営していた。エア・アメリカはモン族に武器を運び、彼らの生産する阿片をロンチェンのCIAの空軍基地(1962年設立)に戻した。その後、ヘロインの一部は南ベトナムに送られた。1975年にアメリカがベトナムから撤退した後、ラオスは世界で3番目に大きなアヘン生産国になった。

●1978-89年(アフガニスタン紛争)

 CIAはアフガニスタンに侵攻したソビエトと戦うムジャヒディン・ゲリラを支援するため、「カヴン作戦」を開始した。それには、パキスタンのカラチからアフガニスタン国境まで武器を運ぶパキスタン軍統合情報局(lSI)に援助した。しかしlSIはトラックが阿片とヘロインを積んで国境から戻ることを許可した。1989年にソビエトアフガニスタンから撤退した後、ムジャヒディンへの援助は停止し、内戦はライバルの武将と軍隊を維持するためにアヘン生産の増加を支持した。アフガニスタンはやがて世界最大のアヘン生産国になった。 

●1979-89年(コントラ戦争)

 ニカラグアで1979年から1989年の10年間、サンディニスタ革命政権の政府軍とアメリカが組織した反革命傭兵軍コントラが戦った。レーガン大統領(任期1981 - 1989)がニカラグアの親マルクス主義サンディニスタ政権の打倒を誓うと、ジョージH.W.ブッシュ副大統領は、CIAが同盟を結んだ反サンディニスタ・コントラ軍の創設を承認した。もちろんCIAは、コントラ軍が麻薬密売に関与しており、彼らに武器を運ぶ飛行機が、コカインを積んで米国に戻っていることを知っていた。しかし、1982年12月8日の「ボランド修正法案」で、コントラへの資金提供を事実上遮断したため、レーガン政権は、議会の承認なしでイランへの違法な武器の販売を伴う麻薬取引を行うようになった。確かに、冷戦中にCIAが麻薬密売を取り締まったら、CIAは貴重な情報源、政治的影響力、そして違法な作戦のために必要な資金を放棄することになっただろう。(資料 CIA Encyclopedia ABC-CLlO. LLC 2016)

15 CIAの作戦 アフガニスタン紛争(1979-89)

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アメリカ製のスティンガー対空ミサイル

 1978年、アフガニスタンの反政府勢力ムジャーヒディンが蜂起し、その翌年、ソ連の地上軍と空軍によってアフガニスタンは占領された。

  次の10年、ソ連と戦うムジャーヒディンは、アメリカをはじめ多くの国から軍事訓練と装備を受けた。ムジャーヒディンには、イスラム世界の各地から志願兵が集まってきたが、その中心人物にウサーマ・ビン=ラーディンもいた。アフガニスタンへのアメリカの関与の多くは、CIAの役員と工作員によって行われた。1986年以降、アメリカ製のスティンガー対空ミサイル多数が、ムジャーヒディンに提供された。これがソ連の戦況におおきばダメージを与えた。

 1987年7月にはソ連軍のアフガニスタンからの撤退が発表され、1989年2月ソ連軍は完全に撤退。その同じ年、アフガニスタンの首都カブールにある米国大使館では、アフガニスタンの派閥間の戦闘が増加し、安全上の理由で閉鎖され、一握りのCIA工作員が残った。

 1996年9月27日、過激で原理主義タリバンの軍隊がカブールを占領、1998年までにアフガニスタンの90%以上を支配した。13年後、2001年9月11日の同時多発テロ事件をきっかけに、CIAはタリバンアフガニスタンで活動していることに改めて気づいた。

 CIAの工作員は、タリバンに反対する北部同盟軍を支援するとともに、国に入る米英の特殊作戦部隊と緊密に協力する任務を負った。

 アメリカの対テロ戦争での最初のアメリカの戦闘死者は、CIAの作戦責任者であるジョニー・マイケル・スパン( 1969 – 2001) だった。 2001年11月、スパンはマザリシャリフ近くのカラジャンギの要塞で捕えたタリバン兵士を尋問していた。そのとき、敷地内に武器を密輸していた囚人が反乱を起こした。要塞の支配を取り戻すための戦いで、スパンは殺された。CIAはその後もアフガニスタンでの活動を続けた。