シュールの本棚

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14 CIAの作戦 「イランアメリカ大使館人質事件(1979)

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アメリカ大使館占拠と工作員アントニオ・メンデス

 1979年11月4日、イラン・アメリカ大使館人質事件がテヘランで発生した。イスラム革命防衛隊率いる暴徒による、アメリカ大使館占拠は、444日間続き1981年1月20日にようやく解決した。しかし大使館員のうち、6名が事件の翌年1月にCIA工作員によって無事イラン脱出に成功している。

◎米大使館の占拠

 1979年10月22日以降、アメリカが亡命中のイランのパーレビ国王を受け入れたことにイスラムの学生らが反発し、テヘランにあるアメリカ大使館に抗議デモを行った。デモは過激化し、11月4日学生と暴徒たちが、塀を乗り越えて大使館の敷地内に侵入し建物を占拠した。アメリカ人外交官や海兵隊員とその家族の計52人を人質に、パーレビ国王のイランへの身柄引渡しを要求した。

 なお、11月4日の占拠事件発生の際、複数の領事部のメンバーが大使館からの脱出に成功し、イギリス大使館に逃れ空路で脱出した。別の6名の領事部のグループも脱出には成功したが、イギリス大使館にたどり着くことができず、カナダ大使公邸に集まり、そこに79日間留まった。

◎脱出作戦

 テイラーカナダ大使は、同国政府に6名の救出を依頼し、この事実を聞いたアメリカ政府は、脱出計画をCIAに依頼し、アントニオ・メンデスに脱出計画を立案した。メンデスは計画の準備をすすめたあとテヘランに入国、カナダ大使公邸に入り6人と合流した。その後6人に映画の撮影スタッフに偽装する作戦を提示した。

 この作戦は、6人をSF映画『アルゴ』を制作するカナダ人スタッフとし、撮影が終りイランから帰国するという偽装工作を作り上げた。1980年1月27日、6名の館員とメンデスら作戦グループは、イラン政府の目を偽ってテヘランの国際空港に到着、チューリヒ空港行きのスイス航空機に搭乗し脱出に成功した。なお、作戦の計画と実行までの一部始終は、2012年に『アルゴ』という題名で映画化された。

13 CIAの作戦 「フェニックス作戦」(1968〜1971)

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「ヴェトナム百科事典」表紙と、サイゴンから脱出する市民

 ヴェトナムについての1965年のCIAの報告は、「ヴェトナム戦争は膠着状態にあり、米国はそれを勝ち取ることができなかった」と結論付けた。したがって政策立案者は、事実に基づいて正しい意思決定をすることが出来た。しかし米国当局は、その情報を生かすことはなかった。

 米国はラオスでも、秘密だが大規模な戦争にかかわった。CIAは、主にモン族の山岳部族を訓練し装備させ、ラオス共産主義パテト・ラオと戦い、ベトコンに支援物資を送る「ホーチミン・ルート」を切断した。

 このCIAの運用は、1960年に始まり10年にわたって継続された。 CIAは、独自の航空会社エアー・アメリカによって、食料、医薬品、武器、弾薬、および人員を飛行させた。

 バンパオ将軍(1926 - 2011)が率いる約4万人の秘密軍が、CIAのラオスでの秘密戦争で戦った。数年間はうまくいった。しかし、1975年春に南ベトナムカンボジア共産主義者に敗北した後、バンパオと彼の軍隊、そして数十万人のモン族がタイに亡命を余儀なくされた。

●「フェニックス作戦」

 1960年代を通じて、CIAは鎮静化作戦でヴェトコンを破壊する活動をした。これらの作戦の中で最も残忍なのは、1968年に開始された「フェニックス作戦」である。その目的は、個々のヴェトコンを逮捕し、洗脳または暗殺を通じて彼らを無力化することにあった。フェニックスは基本的に南ベトナムによる作戦だったが、CIAは重要なアドバイスと人員を提供した。 そしてその最も凶暴なセクションである偵察ユニット(PRU)は、CIAの直接の指揮下にあった。

 CIAの用意した尋問センターは、すべての地区に設置された。その後、月間割当で殺害または捕獲された3,000人がセンターに送られた。これに米軍関係者約600人が、CIAのコルビー長官の管理下に当てられた。捕獲された約2万~4万人が死亡し、2万8000人が投獄され、2万人が「再教育」または「回心」した。 多くは無実で、個人的な復讐や汚職の犠牲者で、フェニックス作戦の影響を見積もることは困難である。

 1975年に南ベトナム政府が終焉を迎えたとき、CIAは、金を詰めた2つの巨大なスーツケースを持っていたとされるグエン・ヴァン・チュー大統領(1923 - 2001)を台湾に飛ばすことを含む、必死の避難を余儀なくされた。(資料「 THE ENCYCLOPEDIA OF THE VIETNAM WAR」2011 by ABC-CLIO, LLC)

12 CIAの作戦 南米チリ大統領の排除(1973)

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クーデター(左)とカストロとアジェンデ(右)

 1959年のキューバ革命以降、米国政府は南米の共産化に伴い、CIAによる反共産支持者に対する援助を始めた。

1962年、チリでは左派が増大し、保守的な軍隊との分裂に至った。そこでCIAは、1963年から10年間、チリでの秘密活動に1000万ドル以上を使った。CIAの活動の目的は、マルクス主義者の国会議員アジェンデ(1908 -1973)の活動の阻止だった。64年の選挙でのアジェンデの敗北の要因は、反アジェンデ陣営が選挙資金の半分以上をCIAから受け取っていたことがあげられる。70年9月の大統領選でも、ニクソン大統領はアジェンデ当選を阻止するよう、キッシンジャーとCIAに命じた。この命令を受け、CIAは議員買収に着手したが、議員買収は失敗しアジェンデの大統領が就任した。

 CIAはアジェンデ体制を批判するグループに資金を流し続け、政権打倒のための軍事クーデターを画策し続けた。まず最初が金融封鎖だった。米国の銀行や国際金融機関に、チリに融資を行わないよう圧力をかけた。またトラック所有者の協会に資金を提供し、長期にわたるストライキを敢行させた。このストライキでチリの流通が麻痺し、大きな打撃を与えた。

●9.11クーデター

  1973年9月11日、チリの首都サンティアゴ・デ・チレで、クーデター軍が大統領府を襲撃、アジェンデは最後のラジオ演説を行なった後、死亡した。司法当局が2011年5月、遺体を発掘した結果、カストロにもらった自動小銃を使って自殺したことが確認された。

●チャーチ委員会によるCIA活動調査

 1975年に、米国議会は政府の情報活動を調査する委員会を選択した。ロッキード事件(1976) で知られるチャーチ委員会は、76年4月に活動報告を行い、1963~73年のチリでのCIAの秘密活動を明らかにした。(出典 Spies, Wiretaps, and Secret Operations by Glenn P. Hastedt 編. 2011)

11 CIAの作戦 ゲバラ暗殺(1967)

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ゲバラの棺とゲバラ

  エルネスト・ゲバラ(1928–1967)は、キューバ革命(1956–59)と1961年のピッグス湾事件の両方でカストロの2番目の指揮官として働いた。

 1928年にアルゼンチンに生まれたゲバラは、中流階級の家庭の5人の子供の長男だった。 彼は1947年にブエノスアイレス大学の医学部に入学した。しかしゲバラは、1952年に友人と南米を横断するオートバイの旅に出て、彼の研究は一時的に中断された。その後、彼はグアテマラに行き、そこで社会主義民主党グズマンが、大統領に選出されていた。

 その後1954年のCIA支援の反政府勢力によるグズマン政権の転覆があって、ゲバラは米国がマルクス主義政府に常に反対すると信じるようになった。クーデター後ゲバラグアテマラを離れ、メキシコに向かった。そこで、彼は将来のキューバ大統領カストロと会った。カストロキューバ政府を転覆する準備をしていた政治亡命者だった。

 ゲバラカストロに加わり、1956年11月にキューバ沿岸に上陸する革命家の軍隊を率いた。しかし部隊はバティスタの軍隊に発見され、ほぼ全滅した。ゲバラは負傷し、カストロと一緒にシエラマエストラ山脈に逃げた。1959年にカストロの軍隊がバティスタ政権を倒したときは、ゲバラカストロの最も信頼できる補佐官の1人になった。

 カストロの権力が確立されると、ゲバラは「戦争犯罪」裁判を実施する権限を与えられ、バティスタ政権の約600人の民間および軍関係者が絞首刑に処せられた。これには、反体制派の容疑者の将校軍団を一掃することも含まれていた。すぐにゲバラは、堅固な反米革命家として国際的な評判を築いた。

  1965年の春、ゲバラは公の生活から姿を消した。 彼の居場所は2年間秘密にされていたが、アメリカの諜報機関は、彼がアフリカのコンゴ南アメリカの両方で革命軍に仕え、訓練を手伝っていたことを発見した。

  1967年10月8日、彼がボリビアサンタクルス近郊でゲリラ部隊を率いていたとき、待ち伏せされ、アメリカ人の訓練を受けたボリビア政府軍のレンジャーに捕らえられた。その翌日、彼は処刑された。彼は、訓練も装備も不十分なボリビア軍にのみ対処しており、米国政府が、CIAの特別活動部隊の指揮官やその他の工作員のチームをボリビアに派遣したことに気づいていなかったのだ。

10 CIAの作戦 ゴ・ディン・ジエム暗殺(1963)

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焼身自殺する僧侶とゴ・ディン・ジエム大統領

  南ヴェトナム初代大統領のゴ・ディン・ジエム(1901- 1963)は、共産主義の拡大を懸念するアメリカの支援を受け、国内の共産主義者を厳しく弾圧した。彼は熱心なカトリック教徒でもあり、カトリック信者が多いサイゴンの有力者を優遇した。これに反発した仏教徒らの反政府運動に対し、1963年戒厳令を布告。各地の寺院を襲撃して僧たちを逮捕した。仏教徒に対する抑圧に抗議するため、僧侶のティック・クアン・ドックはカンボジア大使館前で焼身自殺をした。こうした状況に不安を感じたケネディ大統領の黙認のもと、CIAの全面的支援を受けた南ベトナム軍内部の反ジエム派により、反ジエム・クーデターが計画された。

●クーデターと暗殺

 クーデターはベトナム陸軍のミン将軍を含む、軍事革命評議会によって計画された。 CIAの将校コネイン中佐は、米国大使チャン・ヴァン・ドンとミン将軍の連絡係として、10月2日にタンソンニャット空港で将軍に会った。

 3日後、コネイン中佐はクーデター計画についてミン将軍と話し合い、アメリカはこれに干渉しないことを確認した。

 1963年11月1日、コネインは軍服を着て、バッグに詰めた軍資金をミン将軍に渡した。そのあと、コネインはCIA局に電話をかけ、ディム大統領に対するクーデターが始まることを示す合図を出した。ミン将軍と彼の共謀者たちは、迅速に政府を転覆させていった。

 大統領と彼の弟を守るのは宮殿の警備員だけになった。しかしその夜、ディエムと彼の側近は、地下通路を通ってチョロンのカトリック教会に逃げ込んだが、翌朝捕らえられた。

 11月2日、兄弟は装甲兵員輸送車でベトナム合同将軍本部に向かう途中、ミン将軍からの命令を受け、銃剣とリボルバーで暗殺された。

9 CIAの作戦 キューバミサイル危機 (1962)

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ソ連製の地対空ミサイルとU2偵察機

 キューバミサイル危機は、キューバでのソビエト中距離核ミサイルの配置をめぐる、米国とソ連邦の間の対立である。

 1962年7月から8月にかけて、ソ連の貨物船がキューバの港に出入りするため、アメリカ軍は、キューバ近海の公海を往来するソ連の船舶やキューバ基地をロッキードU-2による偵察飛行を強化していた。U-2機は、CIAの資金で開発され、1955年8月に1号機が初飛行して以来、アメリカの貴重な情報収集手段となった。

 CIAの調査の結果、4000~6000人のソ連人がキューバに入国していると結論した。1962年9月20日キューバ難民から裏付けとなる情報を受け取った。それによると、彼はキューバのトラックに、ソ連の中距離弾道ミサイルの特徴と一致するミサイルを見たという。CIAの国立写真解釈センター(NPIC)は、1962年10月14日に米国を攻撃できるミサイルを発見し、10月16日、CIAはケネディ大統領に、偵察写真によりソビエトミサイルがキューバに配備されたことを通知した。

 同年10月27日、ケネディ大統領は全国テレビに出演し、キューバ向け船舶の「海上封鎖」を発表した。ケネディ大統領の行動は、特にキューバに向かうソ連船が封鎖に反対した場合、ソビエトとの本格的な核戦争が起りえるとの懸念を強めた。27日昼頃、キューバ上空を飛ぶU-2偵察機が、ソ連軍の地対空ミサイルで撃墜された。連邦捜査局(FBI)のエージェントは、ソビエト外交官が交渉の終結を見越して文書を燃やしていると報告した。

 事件のたびに、米国とソ連は核の対立に近づいた。しかし、激しい外交交渉の後、10月29日にモスクワは妥協し、キューバからのミサイル撤去に同意した。これは、キューバに侵入しないことと、直接ソ連領内に向けられているトルコ国内の核ミサイルを解体するというアメリカの誓約と引き換えであった。

8 CIAの作戦 ピッグス湾の侵攻(1961)

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事件後の「LIFE」表紙と作戦での捕虜

  キューバ革命から2年後の1961年4月17日。CIAの支援で軍事訓練された亡命キューバ人部隊が、キューバに侵攻してカストロ政権の打倒を試みたピッグス湾の侵略「ザパタ作戦」が実施され、CIA史上最悪の失態をもたらした。

 CIAが資金提供し計画された侵略は、4月15日「フリー・キューバパイロットによる効果のない空襲で始まった。一方

カストロの空軍は、6機のB-26、4機のT-33トレーナー、およびイギリス海軍戦闘機で構成されていた。

 キューバ空軍に偽装した複数のA-26は、戦闘機の収容先のキューバ軍基地を攻撃した。36機の戦闘機のうち5機を破壊したが、味方の飛行機は4機が撃墜された。

 最初の爆撃の2日後、グアテマラで戦闘訓練を受けた反カストロ軍の1,543人が、ピッグス湾のの海岸線に沿ったいくつかの地点でボートから下船。ビーチを攻撃し始めた。主な輸送手段は、5隻の2,400トンのチャーター船と、CIAが所有する2隻の歩兵上陸用舟艇である。キューバ空挺部隊が海岸堡の北に上陸すると、これに対し約20万人の政府軍がで迎え撃った。また政府軍のロッキードT33戦闘機から爆撃を受けて武器弾薬や食糧そして医療品などを積んだ補給船が撃沈された。また政府軍の飛行機は、侵略軍と輸送船やボートを攻撃し始め、多くを沈めた。さらにピッグス湾沿いの浅瀬が珊瑚礁を覆い、多くの上陸部隊がビーチから遠く離れた場所で下船することを余儀なくされた。窮地に立たされたCIAと軍は、上陸部隊を救うためにアメリカ軍の直接介入を求め、ヒロン浜の沖合に待機していたジェット戦闘機による支援を求めたが、大統領はこれを拒否した。

 その結果、侵略軍の114人のメンバーが殺害され、1,200人近くが捕虜になった。

 任務が中止された直後に、ケネディ政権は攻撃中に捕らえられた戦闘員の解放のため、カストロと交渉を始めた。

数ヶ月の交渉の後、カストロは5300万ドル相当の食料と薬と引き換えに解放に同意した。 

 作戦崩壊から3日後、ケネディは「ザパタ作戦」の失敗の理由を突き止めるため、テイラー委員会を設立した。委員会は調査結果を53ページの報告書にまとめ、1961年6月に大統領に提出した。この事件の結果、3人のCIA高官が解雇され、CIA長官のダレスをジョン・マコーンに置き換えた。