4 石油戦争 燃料プラント空爆 (1944)
連合国がナチスの燃料工場の空爆が遅かったのはなぜか?
この事実をディートマー・パイパーが「DERSPIEGEL」に記した。以下はその説明である。
●石油獲得の苦労
ヒトラーは、「私たちは大規模な生産を行っているが、少なくとも400万から500万トンのルーマニアの石油がなければ、戦争を行うことができない」と述べた。
しかし、ソビエトの前進は、ドイツとルーマニアの同盟を終わらせた。1944年8月、赤軍はルーマニアの首都に到着し、ルーマニア軍は壊滅した。そしてドイツへの石油は枯渇した。
●石油プラントへの空爆
石油供給は、ナチスの戦争体制の最も敏感な部分の1つだった。しかし、連合国がドイツ国内に設けられた燃料プラントへの大規模な空爆までに何年もかかった。その爆撃は他のターゲット(線路、兵器工場、または都市全体)が優先された。1944年5月1日まで、英米の爆弾が石油産業のプラントに落ちた割合はわずか1.1%だった。
1944年4月の報告書で、ドイツ空軍の最高司令部は、「なぜ連合国はこれらの施設をまだ破壊しないのか」と疑問に思いった。ドイツ国防軍が赤軍を減速させるのに十分な戦闘力を12か月にわたって維持したのは、連合国にとって得策だった。
ドイツの燃料産業への最初の大きな打撃は1944年5月12日に起きた。午後2時少し前に、第8米空軍から800人以上の爆撃機がドイツ中部の水素化作業所に現れた。パイロットは約1700トンの爆弾を投下した。巨大な労働者の軍隊(最大35万人)と共に、ドイツ人は修理に取り掛かろうとした。しかし、連合国、特にアメリカ軍は何度も攻撃した。攻撃の凄さで「ロイナの戦い」は伝説になった。20回の米国第8空軍と2回のイギリス空軍の攻撃で、合計6552機の爆撃機がロイナに1万8328トンの爆弾を投下したのだ。
この影響で、1944年9月の水素化プラントの総生産量は、4月に達成された量のわずか8%になった。1945年4月4日、ロイナでの生産は完全に停止した。ドイツ国防軍は燃料不足で、戦車も飛行機も休止を余儀なくされた。(出典 ディートマー・パイパー「DERSPIEGEL」2010年6月28日)