15 イスラエルの作戦 ソロモン作戦(1991)
1980年代のエチオピアのユダヤ人の救助作戦、特に「モーセ作戦」にもかかわらず、まだその国に多くのユダヤ人は残っていた。 1990年初頭にイスラエルとエチオピアの外交関係が再開し、同国で内戦が始まった後、少数派の数千人のユダヤ人がアディスアベバのイスラエル大使館周辺に群がり、イスラエルに行く順番を待っていた。
1990年、モサドは、エチオピアからイスラエルに数千人のユダヤ人を空輸する「ソロモン作戦」という、複雑で政治的にややこしい任務に着手した。イスラエル政府は、エチオピアの統治者メンギスツ大佐に3000万ドルを支払い、彼らの出発を許可することで合意した。
しかし、内戦によりメンギスツ政権が崩壊の危機に瀕し、飢饉によって数百人のエチオピア系ユダヤ人の命が急速に奪われたため、残った人々はすぐに移住しなければならない状況になった。1991年5月24日、反政府勢力がエチオピアの首都に接近し、ソロモン作戦が開始された。イスラエル空軍とエルアルの飛行機が離陸し、アディスアベバのボレ国際空港に着陸し続けた。
最初の飛行機がイスラエルを出発してから33時間後に、最後の飛行機がイスラエルのベングリオン国際空港に戻り、約1万4000人のエチオピア系ユダヤ人がイスラエルに飛んだ。軍用機と民間機の計35機で、のべ41回飛んだことになる。
作戦で重要な役割を果たしたモサドは、エチオピアで、主にエチオピアのユダヤ人アウェケが支援していた。作戦は、彼と彼の周りの人々に大きな危険を冒した。
アウェケは首都でホテルマネージャーとして働き、ユダヤ人コミュニティとつながった。彼は当局に2回逮捕され、イスラエル政府の協力者の疑いで2年間を刑務所で過ごした。アウェケは、今回の作戦で初めてイスラエルに帰国し、彼の行動に対して英雄の歓迎を受けた。
彼は娘と一緒に到着したが、妻を連れ出すために戻るという約束は果たせなかった。彼はイスラエルに到着後、エチオピアの刑務所で受けた拷問の傷がもとで亡くなった。