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14 有名人のスパイ「日独防共協定」を盗んだクリヴィツキー

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クリビッキーと、彼が死んで発見されたKimpton George Hotel

  ウォルター・クリヴィツキー (1899 - 1941)は、1919年にソビエト共産党に入党し、ポーランドソビエト戦争で諜報活動に従事し、スパイとしての経験を積むことになる。1931年から統合国家政治局(OGPU)外国課に転属し、海外情報の収集に従事し、1935年10月、外国課非合法支局長としてオランダに派遣される。

 このころ、ドイツ通で駐独大使の大島浩(1886 - 1975)は、日独同盟の推進者となっていた。彼は1935年10月に「日独防共協定」の原型となる草案を書き上げている。そして1936年7月、ドイツ側から示された協定草案の全文を東京の外務省に知らせた。

 大島が打った暗号電報は、ベルリンの電報局から送信された。まず大島と東京とのやりとりをドイツ当局が傍受し、そしてクリヴィツキーがナチス諜報機関内に潜入させていた工作員が、ナチスが傍受した極秘電報を手にした。

 1936年8月、この極秘電報の所持者は、ドイツ国境を越え、アムステルダムに到着するとの連絡が入った。この報告により、クリヴィツキーは、助手を連れてアムステルダムに行き、情報を写した何本ものフイルムを受け取った。解読された文書は、大島とリッベントロップとの日独交渉のすべてと、東京からの訓令が記されていた。

 文書解読に成功したクリヴィツキーは、その内容を長文の暗号に組み、モスクワに知らせるべく、伝書使に持たせてパリへ向かわせた。

 こうして、日本とドイツの秘密交渉は、大詰めの段階でその全貌をスターリンの知るところとなった。彼はソビエトの外交戦を有利に展開する切り札を握ったのである。この秘密漏洩がわざわいして、日独両国は、ソ連はもちろん、味方につけたかったイギリス迄も不信感をいだかせる結果になった。

 この優秀なクリヴィツキーも、スターリンの大粛清が始まると、クリヴィツキーの同志を引き渡す命令にそむいたとして、亡命先のアメリカで暗殺されることになる。

資料 NHK取材班「ヒトラーに派遣されたスパイ」(1995)