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17 ベルリンの盛衰  シュタージ

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ベルリンの旧シュタージ庁舎

 国家保安省 (ドイツ語: Ministryium für Staatssicherheit, MfS )、通称「シュタージ」は、1950年2月8日に設立された。東ドイツの国家治安機関であり、最も効果的で抑圧的な諜報機関および秘密警察機関の1つとされている。東ベルリンに本庁舎があり、ベルリン北東部リヒテンベルグに大規模な複合施設があった。
シュタージの首長エーリッヒ・ミールケ(1907- 2000)は、32年間権力を掌握した。ミールケのシュタージは1957年に表面的には独立を認められたが、KGBは1990年までシュタージの8つの主要な総局に連絡将校を置き、それぞれがシュタージのベルリンの敷地内と、東ドイツ周辺の15のシュタージ地区本部のそれぞれに独自のオフィスを置いていた。
●シュタージの任務
 シュタージの主な任務の 1 つは、情報提供者になった市民の広大なネットワークを通じて、市民をスパイし、反体制派を秘密の手段によって摘発することだった。組織の存続中に 25万人を政治犯として逮捕した。
 偵察総局 (Hauptverwaltung Aufklärung) は、スパイ活動と外国での秘密作戦の実施の両方を担当していた。マルクス・ヴォルフの長年の長官の下で、この総局は、冷戦の最も効果的な諜報機関の 1 つとしての評判を得た。
●シュタージ本部への襲撃
 1989年11月、ドイツ民主共和国の陥落により、シュタージは解散した。シュタージの従業員は、手持ちの大量のファイルや文書を、焼却したりシュレッダーを使って破壊し始めた。これらの活動が知られると、シュタージ本部の前で抗議が始まった 1990年1月15日の夕方、機密ファイルの破棄を停止するよう求める大勢の群衆が門の外に集まった。
 1990年以降、多くのシュタージ当局者が犯罪で起訴された。ドイツ再統一後、シュタージが保持していた何百万人もの東ドイツ人監視ファイルが開かれ、すべての市民が要求に応じて個人ファイルを閲覧できるようになった。(参照 ウィキペディア英語版)