シュールの本棚

世界で日々起きていることは、現実を超えて進んでいる

8 モスクワの盛衰 最初のソビエト原子爆弾

f:id:danbuer:20210507083820j:plain

核物理学者イーゴリ・クルチャトフ(Sputnikより)

「最初のソビエト原子爆弾」を紹介している記事は、ロシア連邦原子力センターのホームページ、およびロシア版ウィキペディアソビエト原子爆弾の製造」に掲載されている。以下はその要旨。

●原爆実験までの過程
 ソ連原子爆弾開発プロジェクトの責任者であった核物理学者イーゴリ・クルチャトフ(1903 - 1960)は、1942年の終わりから、必要な科学者や専門家を集め始めた。当初、原子問題の一般的な権限はV.モロトフが行使していたが、1945年8月20日(日本の都市への原爆投下の数日後)、国防委員会は、ベリアが率いる特別委員会を設立することを決定した。
 最初の国内原子爆弾はRDS-1と呼ばれていた。RDS-1は、構造的にはアメリカのモデルの正確なコピーであり、いくつかの改良が加えられていた。ソビエト原子爆弾RDS-1の開発は、1945年にテストされた米国のプルトニウム爆弾の計画に従って入手可能な材料を考慮して行われた。
これらの資料は、ソビエトの外国諜報機関によって提供された。重要な情報源は、ドイツの理論物理学者であり、米国と英国の核計画に参加したクラウス・フックス(1911 - 1988)だった。
 米国のプルトニウム爆弾に関する情報資料により、RDS-1の製造における多くの間違いを回避でき、開発時間が大幅に短縮され、コストが削減された。
 1945年の終わり以来、核開発研究施設KB-11の場所を探してきたが、1946年4月末、ゴーキー地域とモルドヴィア自治ソビエト社会主義共和k国の境界にあるサロフを調査し、初期の生産インフラを備えたこの場所が決定された。一方核実験場(UP-2 MO)の場所は、カザフ共和国(現・カザフスタン)の北東部セミパラチンスクの西約170kmにあるイルティシュ草原が選ばれた。
 1947年2月17日、スターリンが署名した法令により、KB-11は秘密保持の観点から制限区域としてすべての記録から除外され、1947年の夏、地域は軍事的保護下に置かれた。KB-11で働くすべての候補者は、州の保安サービスによって特別なチェックを受けた。
 1947年、36人の科学者がKB-11に到着。86人のエンジニアと技術者を雇用した。
 ソ連で最初の実験用原子炉F-1は、ソ連科学アカデミーの第2研究所で建設が行われ、1946年12月25日完成。1948年12月22日、原子炉からの最初の製品が放射化学プラント「B」に到着した。プラントBでは、原子炉で生成されたプルトニウムがウランと放射性核分裂生成物から分離された。
●原爆実験
 1949年8月24日、実験の責任者と特別委員会のメンバーがセミパラチンスク核実験場に到着。8月26日までに、テストサイトでのすべての準備作業が正常に完了。8月29日の朝7時に、核実験場がまばゆいばかりの閃光で照らされた。ソビエト連邦は、最初の国内原子爆弾の開発とテストを無事に完了した。9月25日、このイベントに関する通信社のTASSレポートがマスコミに発表された。資料/ロシア連邦原子力センター(www.vniief.ru)