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18香港の盛衰 香港の売春と感染規制

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  1879年、香港中部で認可された売春宿
  図出典(P・ハウェル「植民地時代の香港における売春の人種、エリアの規制」ケンブリッジ2004)

 貿易港としての香港では、売春宿と性病は植民地の歴史の一部になった。 英国による香港占領後に香港にやってきた中国人とヨーロッパ人の大多数は男性であったため、香港の男性と女性の比率は非常に不均衡で、それに香港に駐留する軍隊がさらに不均衡を引き起こした。大平天国時代の中国人の大規模な流入により、1872年の香港の最初の公式国勢調査では、中国人の男女比率は7対1であり、ヨーロッパ人の男女比率は5対1だった。
  1850年代に、香港は有名な売春センターとなり、梅毒の温床となった。1876年の国勢調査によると、香港の2万5000人の中国人女性のうち、6分の5が売春婦だった。1877年、政府機関は、香港の中国人女性の6人に1人が主婦または側室で、残りは売春婦と推定した。
 中国人女性は、主婦や側室以外は売春婦と見なされた。これは実際の売春婦の数ではなく、ヨーロッパ人の中国人に対する感想である。香港ヨーロッパ人は、中国人女性を性的および道徳的危険と見なすことがあり、したがって香港政府1857年から1890年にかけて売春の認可と規制を実施した。ビジネス許可を得るには、売春宿が登録局長に登録する必要がある。売春婦は毎週の健康診断を受け、感染した売春婦をSTD病院に拘留した。
 これらの法律を制定する主な目的は、兵士、船員、警察に健康な中国人の売春婦を提供し、一方で性感染症にかかるのを防ぐことにある。したがって、欧米人相手の売春婦だけが検査の対象として規制された。
 1889年に、立法評議会は「女性と少女の保護条例」を可決し、1867年に制定された「感染症条例」を廃止したが、その後、すべての売春宿の免許および登録規則を復活させた。
  1893年、英国議会などからの激しい圧力により、香港政府はすべての登録および検査計画を停止した。売春婦はもはや健康診断を受けないようになった。そして以前はアクセスできなかった場所に新しい売春宿が開かれた。その結果、1897年には香港の兵士の半数が性感染症となった(10年前はわずか約15%)。
1920年以降
 1920年代に、香港政府は法律以外の手段で売春を規制する方法を考案した。規制に応じない売春宿を閉鎖するために知事はさまざまな裁量権を使用した。19世紀の状況と同様に、外国人を受け入れる売春婦は最も厳しい規制の対象となった。 その結果、ヨーロッパ人の間での性感染症の蔓延は抑制され、中国人の間での性感染症の蔓延も抑制された。
 売春登録制度を廃止する圧力が、主に英国の改革者、国際連盟、地元のヨーロッパの女性グループの3カ所から来た。その結果、 認可された売春宿は1931年から1935年まで操業を停止した。しかしマッサージパーラー、サウナ、銭湯などの名の地下売春宿が多数登場し、性病に感染したヨーロッパの兵士や船員の数が増えた。日本は1941年に香港を占領した後、売春宿の規制と検査のシステムを導入したが、1945年に英国が香港に戻ったときに再び廃止された。(出典 高馬可訳「香港簡史」中華書局2013年)