17香港の盛衰 香港の一夫多妻制は1971年に廃止
1969年7月、香港政府は「⼀夫⼀妻制」の結婚法案を官報に掲載し、「結婚制度条例の改正」を1971年10月からの施行すると発表した。今後中国の妾等、古い結婚形態はすべて廃止されることになった。
香港では「中国を統治する中国法」の政策が長い間追求されてきた。1841年2月、英国の全権大使が香港を統治する前からこの方針を発表してきた。
「華僑の島への居住は、中国の法律と慣習に従って管理されるべきで、あらゆる種類の拷問は廃止され、現在の英国の刑事および海事法と規制が適用されるだろう。」
1843年、最初の香港総督は「香港に住む中国人は、自国の法律に準拠することに同意した」と述べた。 特に、香港人の結婚制度は英国法の結婚制度には適用されない。1852年と1857年に、英領香港当局は結婚条例を2回公布し、その規定は、香港に住む人々にのみ適用され、中国人は清王朝の結婚の慣習に従うことができた。
香港の中国人は保守的で、子孫を絶やさない方便として側室を受け入れる伝統的なシステムの維持に非常に熱心で、1930年まで香港の中国社会では、児童婚と花嫁介添人(姉妹)の側室を受け入れるという暗黙の習慣がまだ利用可能だった。もっとも普通の家族の大多数が結婚しており、官僚社会の裕福で裕福な人だけが側室をもつことができた。これは植民地時代の香港にも当てはまった。
やがてこの側室を受け入れる習慣は、香港の英国のキリスト教倫理によって批判されてきた。1960年代に入った後、世論は側室の結婚習慣を批判し始めた。香港も「国際都市」になり、側室と一夫多妻制は都市のイメージと矛盾しているとして、結局、20年近くの論争の末、香港当局は1969年7月「結婚制度法」を公布し、次いで1971年から娼婦制度を廃止すると発表した。(資料「毎日頭条」2016.7.18)