シュールの本棚

世界で日々起きていることは、現実を超えて進んでいる

16 香港の盛衰 ブルース・リーと香港

f:id:danbuer:20210401093700j:plain

映画『ドラゴンへの道』のポスター

 ブルース・リー(1940 - 1973)の祖先は中国広東省順徳区均安鎮、両親は香港出身で後にアメリカのサンフランシスコに住んでいた。ブルース・リーは1940年にサンフランシスコで生まれたアメリカ市民で、彼の父親は彼を李振藩(Lǐzhènfān)と名付けた。ブルース・リーの妻リンダ・エモリーは、アイルランド出身の白人のアメリカ人で、ワシントン大学ブルース・リーの同級生だった。1963年にブルース・リーに会った直後、彼女はブルース・リーの初期の女性弟子の1人になった。
 ブルース・リーは、中国のカンフーの最初のグローバルプロモーターで、1967年に独自の截拳道(Jié quán dào)を作った。彼の香港での4本半の映画は、複数の記録を破った。『ドラゴンへの道』《猛龍過江》 1972年はアジアの興行成績を破り、ハリウッドと協力した『燃えよドラゴン』 《龍争虎闘》1973年は、世界的な興行収入が2億3000万米ドルに達した。
 1973年7月20日、32歳のブルース・リーは、香港の女優ディン・ペイの自宅で突然亡くなった。病院の発表によると、死因は「脳浮腫」という。
 ブルース・リーの葬儀は2回行われた。一度目は 7月25日、香港で親戚、友人、ファンによって開催された。九龍葬儀場の外は何千人もの映画ファンで賑わっていた。追悼ホールではブルース・リーのお気に入りの曲「When I Die」の合唱がホールに響き渡った。葬式の翌日の午前8時、リンダはブルース・リーに「同行」し、2番目の故郷である米国に戻った。遺体は、旅客機の下部にある貨物室に銅の棺が納められた。7月30日、ブルース・リーの2回目の葬儀が、シアトルのパタワ葬儀場で行われた。そのあと遺体はレイクビュー公園の墓地の芝生の斜面に埋葬された。遺体が海外に埋葬されたのは、家族の取り決めによるもので、妻がアメリカ人だったためである。ブルース・リーの墓石には、彼の写真、英語名「BruceLee」、中国語の元の名前李振藩(LiZhenfan)と刻み、 墓石の下には、道教の黒と白の太地の絵が刻まれた黒い石の彫刻があり、両側に漢文「以无法为有法,以无限为有限」(無法をもって有法となし、無限をもって有限とす)と記された。
(資料「百度2018.1.10」、孙友亮主编「名人死亡档案 」青島出版社2006)