6 イスラエルの作戦 ノア作戦(1962-69)
●フランスのシェルブール造船所から、ミサイル艇を盗み出す作戦。
1962年後半、イスラエル海軍は、老朽化した駆逐艦を最新のミサイル艇に置き換えることに決めた。
そこでイスラエルは、ドイツのホロコースト賠償として、西ドイツの造船所にミサイル艇の製造を依頼した。アデナウアー首相は、取引を秘密にすることを条件に、12隻のミサイル艇を建造することに同意した。そして1964年の終わりまでに、3隻のミサイル艇が建造され配達された。(残り9隻)しかし、「ニューヨークタイムズ」に取引のニュースがリークされ、残りのミサイル艇は、西ドイツでは建造できなくなった。そのため急遽建造先を、フランスのノルマンディーの造船所に変更することになった。同時に、ボートに搭載されるミサイルがイスラエルで建造されていた。
1967年4月、残り9隻のミサイル艇のうち、最初の一隻がフランスから、イスラエル海軍に引き渡され、5月に2隻目が引き渡された。(残り7隻)
1967年の第三次中東戦争の前夜に、ドゴール大統領は、フランスはもはや中東に攻撃的な武器を供給しないと宣言した。しかし、シェルブール造船所でのミサイル艇の建造は進行中であったため、1967年の秋にさらに2隻の艇がイスラエル海軍に引き渡された。シェルブールでは、ミサイル艇の製造が続けられたが、それが輸出できるかどうかわからなかった。
●作戦準備
1969年11月、イスラエル当局はミサイル艇の引き取りを放棄せず、リモン提督の作戦指揮により、残りのミサイル艇を確保する「ノア作戦」を開始した。作戦は、80人のイスラエル人将校と、民間人の服を着た船員が、2人づつに別れてヨーロッパを巡る観光客として、シェルブールに向かった。12月23日までに、すべての乗組員が到着し市内に散らばった。
●ボートによる脱出
脱出の前夜まで、参加要員はボートを維持し続け、80人の乗組員はそれぞれ甲板の下に隠れた。天候の悪化により再び脱出が遅れたが、 2:30にボートはシェルブールを出発した。
フランス人は当初、ボートの出港に気づかなかったが、港を訪れた記者がすべてのボートが行方不明になっているのを知り、BBCに報告した。これに気づいたフランス国防相のミシェル・ドブレは、ボートを沈めるために空爆を命じたが、フランスの参謀長はこれを拒否した。ボートはすでに公海上にあり、すでに手遅れだった。
イスラエルのボートは、12月31日にイスラエル北部のハイファ港に到着した。
シェルブールから運ばれたボートは、その後、イスラエル造船所で新しく改造された。イスラエル海軍は海軍ミサイル戦争の先駆者となり、エジプトとシリアの海軍との海戦に勝ち続け、1973年の第四次中東戦争で成功を収めた。(資料 Cherbourg Project ウイキペディア)