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7 イスラエルの作戦 ダモクレス作戦(1962-63)

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作戦を仕切ったイサル・ハレルと、エジプトのミサイル

 1956年の第二次中東戦争の後、エジプトのナセル大統領は、イスラエルとの将来の戦争で使用できる地対地ミサイル能力を構築することを、西ドイツに望んでいた。エジプトのロケット計画は、1962年7月にロケットの試射に成功した。

 1962年、モサド長官のイサル・ハレル(1912 - 2003)は、イスラエルベングリオン首相に、西ドイツに対し、ロケット開発の協力をやめるよう働きかけるよう要請した。

 しかし、ベングリオンは西ドイツ政府と衝突しないことを決意した。ハレルはそこで、彼自身でエジプトでのミサイル計画に携わるドイツの科学者とその家族に対して、破壊的な「ダモクレス作戦」を開始した。

●ドイツの科学者への攻撃

 この作戦には拉致と手紙爆弾が含まれ、ロケット科学者ヴォルフガング・ピルツに送られた小包は、1962年11月27日に開かれたときに彼のオフィスで爆発し、彼の秘書を負傷させた。ヘリオポリスのロケット工場に送られた小包は、5人のエジプト人労働者を殺害した。

 エジプトに軍事用ハードウェアを供給しているミュンヘンの会社の責任者であるハインツ・クルーグ(49歳)は、1962年9月に失踪し、殺害されたと考えられている。

 1963年2月、ナチスドイツのV-2ロケット開発に従事していたハンス・クラインワハター博士の暗殺計画は、シャミルのチームの失敗と、別件の工作員2人の逮捕で事件が公になり、3月15日、ダモクレス作戦は終了した。

 当時の外務大臣ゴルダ・メイアと西ドイツとイスラエルの関係を築こうとしているイスラエルの外交官は、この作戦に激怒した。ハレルは1963年3月25日にモサド辞任を余儀なくされ、ベングリオンも同様に3か月後に辞任した。(資料 Operation Damoclesウィキペディア