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19 有名人と同性愛  モンテーニュ

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モンテーニュとラボエシ

 モンテーニュ(1533- 1592)は、フランスのボルドーの市長として重要な役割を果たしたが、彼の有名な「エセー」(1580–1588)は、ジョン・フローリオ(同性愛者の仲間)によって、ウェールズのヘンリー王子(1603)の宮廷のために翻訳された。

  彼の友人は、エティエンヌ・ド・ラボエシ(1530–1563)だった。 彼はボルドー議会でモンテーニュに仕え、モンテーニュの友情に関するエッセイで不滅になっている。

ラボエシが(疫病で)死ぬまで、彼らはラテン語の詩によって育まれ、あまり頻繁に出会うことなく、魅惑的な友情を築いた。

 モンテーニュは、2人の4年間の神聖な絆について語っている。ラボエシは、18歳で書いた「自発的奴隷制の言説」(1576年)ですでに有名になっており、活動的なラボエシと控えめなモンテーニュは4年間互いに愛しあい、ラボエシの死から回復したことはないと考えていた。

「エセー」は、ラボエシの死を祝い、記念するためにモンテーニュが書いたとさえ提案されている。

 さらにモンテーニュセクシュアリティを追跡すれば、1580年から1581年にイタリアへの乗馬で彼が保管した『旅日記』は、思春期に近い貴族のグループを伴って、彼は日記、関係、側近の選択、そしてイタリアの生活と逸話に関するメモである。

 チロルで、彼はラテン語で、学生、ゴージャスな若い男とおしゃべりを始めた。しかし彼の失望したことに、女性であることが判明した。また博物館にある古代ギリシャの男性像をリストアップし、イタリアの「ゲイ・ツーリズム」の可能性を提示した。『旅日記』には、張形を用いたレズビアン女性が絞首刑にされた記事なども記録されている。1581年3月の記述では、いく組かの男性同士のカップルが結婚式を挙げたことが書かれてあり、のちに彼らは逮捕、処刑されたという。