15 芸術家と金 ショパン
フレデリック・ショパン(1810 - 1849)は、ポーランド出身の作曲家。ピアニストとしても有名だった。ショパンは1823年のワルシャワ学院入学、1825年には演奏会でチェコの作曲家モシェレス(1794ー1870)の曲を弾くとともに、即興演奏をし、「ワルシャワで最高のピアニスト」と絶賛された。
1829年、ワルシャワに戻ったショパンは、8月にはワルシャワ音楽院での3年間の修行を終え、ウィーンで華やかなデビューを果たす。
1831年9月の暮れにパリに到着した。ショパンがパリで公開演奏会を行うことはほとんどなかった。彼は教育・作曲によって高収入を得ており、社交の場での演奏会を好んだ。
ショパンは作曲でどれくらい稼いだかについては、「pianolit.com」のホームページを参考にした。
収入に関する資料は、ショパンが1839年初頭にマヨルカ島にいたとき、ピアニストで親友のユリアン・フォンタナに宛てた2通の手紙に基づいている。この旅行は病弱のショパンの健康を改善することはなかったが、バラード作品38、スケルツォ作品39、2つのポロネーズ作品40などを完成させた。
マヨルカ島での滞在中、ショパンは親友に、ドイツのプロブストからの作曲の版権のお金をレオに送るように依頼する。この手紙で、ショパンの財政と彼がどのように収入を管理したかを知ることができる。
もっとも多く支払ったのは、フランスのピアニストで、出版社プレイエル・エ・シーの所有者、さらにショパンがパリでのコンサートを行ったホール、サル・プレイエルを運営していたプレイエルである。彼はショパンの24の前奏曲に対し、合計2925フランを支払った(今日換算=193万円,1フラン660円)。次にショパンが彼の今後の作曲で、プレイエルは、2つのポロネーズのために1500フラン(今日換算で99万円)を支払っている。
出版社のプロブストがショパンに支払った金額は、バラードと2つのポロネーズで合計約3000フラン(今日換算=約198万万円)を獲得した。
●結論=ショパンがマヨルカ島にいた3か月間、ショパンの主な収入源は。プレイエルの合計が292万円、プロブストが198万円で、総額490万円となる。またショパンの支出では「家賃の支払い」に1500フランを使うと述べている。これを月額家賃が375フラン(今日換算=月額約24.7万円)である。また何に使ったか不明の支出も記録されている。